「虚実皮膜の論を寂しむ」から
2017-06-08
「一生(ひとよ)かけて愛してみたき人といて虚実皮膜の論を寂しむ」
(俵万智『サラダ記念日』)
出版30年ということで、あらためて『サラダ記念日』の歌を読み直している。教科書教材になっている歌、そして講義などを通じて紹介してきた歌などが、また新しい表情でそこに立っている。出版された当時は僕も新米高校教員となった頃で、同世代として「どう生きるか?」について諸々と考えた記憶がある。そのくせ、「一生」などというものはなかなか文学のようにはいかない。現場での喧騒に紛れて文学への繊細な感性を一時期失ってしまっていたようにも振り返ることができる。それはそれで悲喜交々の「物語」があったのであるが、「一生」たるや決して一本道ではないということを感じさせられる。そして今や宮崎に住み、あらためて歌と出逢い直した自分がいる。
冒頭に記した一首から、あらためて「虚実皮膜」の語が気になった。小欄の標題にも通ずるこの語は、江戸時代の浄瑠璃作者・近松門左衛門の芸術論である。穂積以貫という人の聞き書きが『難波土産』(三木平右衛門貞成著)という書物に紹介されており、「(近松答曰)芸といふものは実と虚との皮膜(ひにく)の間にあるもの也(略)虚にして虚にあらず実にして実にあらずこの間に慰が有たもの也」と云う。所謂、虚構論の先駆とされている論であるが、文芸を考える際には押さえておきたい。時は巡り現代の社会では政治のあり方や生活環境の変化から、また違った意味で「虚実」が曖昧なものになって来たように思う。若い世代が「恋愛」を遠ざけることや、生涯独身者が増加している背景には、こうした点が無関係ではあるまい。などと考えて学生たちの爽やかな相聞歌を読むと、どこか安心した心持ちにもなる。そのあたりに、短歌が「生きる」ことそのものを考える文芸であることを再認識するのである。
この日はきっと僕しか成し得ない発見も
読み詠むことの醍醐味がある
「七月六日」に向けてまた様々に考えてみようと思う
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