〈教室〉で書いたものを読んで伝える声
2017-05-30
説明文で読んだ内容を自分の体験を通して理解する
そこで書いたものを読んで他者に伝えると・・・
小中学校で教育実習研究授業を、参観する機会が多い季節になった。実習生がいかなる教材でいかなる授業を創るかを精緻に分析するには、今や教室の後ろで遠目から授業を観ていたのでは分からないことが多い。観点として重要なのは、学習者の反応としての「話す 聞く」「書く」といった「表現」の内実ということになる。参観者としても机間巡視を繰り返し、学習者の反応や表現に注意を注いでいく。そこで従前から大きな課題であると思っていたことに、あらためて気づかされる。例えば、学習者がノートやワークシートに「書いた文字」を、他者に「声」で伝えようとするとき、なかなかそれが内容を「伝え合う」意識に至らないという現象がある。「文字」を単に「棒読み」するに過ぎず、「書き言葉」の「音声化」の趣にしかならないのである。まさに「音読」される「文学作品」も、まったくこの趣から脱し得ない国語教室が溢れている。
なぜ教室では、「文字」を「読む」ごとき「棒読み」になってしまうのだろうか?元来、「読む」という行為が内向的・内言的であり、外向的な「表現」ではないという前提を考える必要があるかもしれない。言い換えるならば、明治以降の言文一致において、まさに「言」と「文」は「一致」したのだと思い込まれてはいるが、やはり「口語性」があるものと「書き言葉」に、距離があると言わざるを得ないのではないだろうか。このあたりが「漢文」及び「訓読文」という明確な「書き言葉」が社会的に通行していた時代からの大きな変化として、再認識すべきではないかと思うのである。(もちろんその「漢文」や「訓読文」が「声」を伴ってさえも、音として流麗な韻律を持ち得ていたことも考慮していく必要はあるが)そして「口語性」があるという場合、それは語順の倒置や明確な主語の欠如などが、”悪気もなく”通常に行われる可能性がある。その倒錯を修正するが為に、「作文の型」のごとき代物が、国語教室に導入される。それは「論理的」という笠を被っており「定式的な言葉」なのであり、決して相互に「声」で「伝え合う」言葉ではないという矛盾と直面する。それを避けようとすれば、「書いた文字」を「読む」のではなく、それを「メモ」として「話す」という「変換」が必要になるのではないかとさえ思えてくるのだ。
「声」と「文字」の問題
通史的に文学史・国語史の観点から捉え直す必要が
そこにこそ、自らの体系的な貫く棒のごときものがあるようにも思えてくる。
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