「田端文士村」ふたたび

2017-05-22
芥川龍之介・萩原朔太郎ら
そして実家近くに太田水穂
小学校の時からの愛読書としても

現在も実家のある生まれ育った街が、東京は北区田端である。たぶん山手線内で一番「田舎」風な駅で、駅前通りの険しい切り通しがその周辺の商業地化を阻害し、発展しづらかった駅であるように思われる。その駅前に「田端文士村記念館」があるが、かなり久しぶりに中に入ってみることにした。小学校の4年生ぐらいの時であっただろうか、近藤富枝『田端文士村』という本を書店で見つけ、当時の年齢としては高価にも1500円ぐらいをお年玉から捻出し購入したのを覚えている。その冒頭付近の見開きに街の地図が折り込みで付せられており、自宅あたりに赤鉛筆で印を付けたのを鮮明に記憶している。この「文士村」の住人として最も著名なのは芥川ではあるが、実家近くに「太田水穂」という文士が住んでいたという地図上の表示が、妙に気になっていた。実家から数十メートルの路地裏に入り込んだあたりにその居があったので、現地を確かめに歩いたこともあった。後に大学生なってから、この「太田水穂」が、同郷長野の窪田空穂とも親交のあった歌人であり国文学者であることを知るに至った。漢文学者の「太田青丘」は、「水穂」の養嗣子であるが、大学時代に漢文学関係に興味を覚え、よく参照する文献の著者でもあった。

この「水穂」の親族が歌人でもある「太田喜志子」であり、若山牧水の妻となった人である。「喜志子」は長野から上京し「水穂」宅に寄宿しており、そこを牧水が訪れたことが二人の縁の始まりであると云う。となれば、牧水は「水穂邸」に足を運んでいたわけであり、僕自身が生まれ育った地を訪れていることになる。さらに緻密なことを言うならば、僕は自宅至近の街医者の産科医でこの世に生を受けたのだが、その地がさらに「水穂邸」に近い。小学生の頃から意識していた「太田水穂」の名前と、「歌人」という称号への憧れ。思い返すならば、いつも頭の片隅にその意識があったように思う。そして今僕は、宮崎に居住し若山牧水研究にも従事している。以前から比較的愛好していた歌人である牧水に、ここまでのめり込んだのはやはり宮崎の地に来たからである。「田端文士村記念館」の展示は、今にしてそんな意識を再確認させるものがあった。僕の実家前を、明治・大正期に牧水は歩いていたかもしれないのである。

故郷の良さは今や「田端文士村記念館」の中だけに
強引な行政の区画整理が「文士村」を大きく引き裂いてしまった
両親とともにあらためて再確認した「田端」の地の深い価値と味わい。
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