よむことの対話性
2017-05-09
『心の花』掲載歌自らの歌の採否についての対話
そしてまた学生との面談もまた・・・
短歌結社誌『心の花』には、毎月八首の歌を送っている。翌々月にそこから半数の四首ほどが選ばれ掲載される。もちろん秀歌となれば、より多くの歌が掲載される可能性もあるが、概ね半数である。雑誌が届くとまずその採否の理由が何であったか、自らの短歌ノートを見返しながら考える。今月は連休があり、雑誌の届け先を大学宛にしているので、ようやく昨日になって雑誌が手元に届いた。開封し頁を繰っていくとき、期待とも不安ともつかぬことばにならない心境となる。自らの歌の検討を終えると、「今月の十五首」などから多くの秀歌を読んでいく。その一首一首の読みそのものを、いかに対話性をもったものとしていくかが重要だと最近は身に沁みて感じている。ここに「詠むは読むこと」という短歌の対話性が、誌上でも展開するのだと自覚する。
ある学生から卒論題目の相談を受けて、あらためて「短歌の対話性」のことを考えてみた。その学生との対話自体にも新たな「発見」があるのが、まさに「対話性」たる所以である。「文学をよむ」ということは、元来、こうした「対話性」に根ざした行為であろう。従前の国語教育の実践において、こうした双方向性が希薄であったことの方にあらためて驚かされる。常に「自己」を起ち上げて、自他との「対話」を通してこそ「文学」をよむことができる。「教える」という観念がこれを疎外してきたというのが、もしかしたら的確なのかもしれない。俵万智さんなども自らの創作活動初期を振り返って御著書の中で語っているが、結社に入っても「何も教えてくれない」のだと云う。それゆえに前述したような「自己対話」を、どれほど濃密に実践するかが上達の鍵ということになろう。短歌に限らず、こうして「自己」の現在を捕捉する行為が、生きていく上でも重要なのである。
説明・理屈・言い訳ではもちろん良い歌にはならない
自らの過去と未来とを見据えて時間軸を右往左往しながら格闘する
学生がそんな対話から、今現在の「自己」に気づいてくれればと願いながら・・・
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