ことばのリアリティに踠き苦しむ

2017-05-08
個の場面が〈事実〉として起ち上がる
普遍化された固有性という逆説を超えて
ことばのリアリティとは何かを求めた一日

前日の歌会での反省を受けて「ことばのリアリティ」とは何か?、と一日中考えていた。「観念的」であり「主観」のみを押し付けるかのような歌になってしまう原因は何か?、と心のあちこちで踠き苦しんでいる。和歌史の中でも「観念的」と評されてきた『古今和歌集』を研究対象とし、その「観念」の内実に漢籍が由来していることを解明してきたことが、意識無意識に自己の表現を束縛しているのかもしれないなどと、人ごとのようにも考えたりする。だがこのような思索を逡巡することに意味を見出さないわけではないが、その逡巡そのものが「観念的」ではないのかと、起ち上がれない自己のことばに情け無さを見出して心は淀み漂う。そうこうしているうちに、洗濯機は何も考えずに仕事を終えたので、僕はただその洗濯物を庭にただ干すばかりなのである。

先達のことばにヒントがあるのではないかと、宮崎歌会の伊藤一彦先生の過去の発言を読み返してみた。「私も〈事実〉としての個々の体験や現実や生活といった個別性を重んじたいと思っている。しかし、同時に、個別性を普遍化してなお固有性を失わないでいる作品を願っている。」(『現代短歌雁14』1990年4月 雁書館 特集:伊藤一彦 における坂井修一の評論「静謐なる飢餓」に引用された一節)この発言は、永田和宏の「普遍性という病ー読者論のために」(初出1983年)への反論として書かれていると坂井評論で註されているが、80年代の「読者論」を中心とする議論の渦中での発言である。それを鑑みて以後30年以上の時間が経過した現在での意味として捉え直すことを前提としてもなお、短歌という定型の持つ「個別性」「普遍性」「固有性」の問題について深く考えさせられる。個の「思索」があまりにも苦しくなったので、在京の母へと電話。その会話にある「リアリティ」とは何か?などと、まだ脳裏の逡巡は終わらないのだが。

連休の最後はやはり青島へ
あらためて浜の礫を握ってみる
親友とともに原点たる店でゴールデンウィーク打ち上げの宴にて・・・
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