「なぜ人は旅に出るのか?」という問い
2017-05-04
「うまい説明などとうていつかないし、つけたくもない部分があって、
実はそれこそ旅の最も陶酔的な本質なのである。」
(大岡信著『若山牧水 流浪する魂の歌』中公文庫1981より)
詩歌に身を捧げた人々と、「旅」の結びつきは強い。彼の松尾芭蕉が『おくのほそ道』冒頭で、その説明できない心情を「そぞろ神のものにつきて心を狂わせ」としているが、冒頭の大岡信の評論も牧水の紀行文における旅への「自覚的、意識的」な点について述べた一節である。周知のように芭蕉も、「西行」や「李白」といった「流浪」の詩歌人に思いを馳せている。昨日の小欄で述べた牧水の歌では「まだ見ぬ山」に「いざ行かむ」という心情が吐露されていたが、これも同様に「(説明など)つけたくない」範疇のことである。「短歌」では歌会などでまさに「説明になってしまった」という評語で、その作品が「残念である」と同義を表わす。詩歌は「説明にあらず」、となれば「登山」も「旅」もまた同じ。「旅」が「人生」であるならば、人の生きる道も「説明」であっては”つまらない”ということになろうか。
こうした詩歌の観念からすると、今の世は「説明」ばかりが求められる。しかもTV番組などでも「わかりやすさ」ばかりがもてはやされている傾向が強い。もちろん政治家などには「説明責任」が求められるのは必定であるが、その場合は決して「わかりやすい」わけではない。むしろ「煙に巻く」感が年々に強まっているようにも思える。小生が関わっている「国語教育」においても、「論理的思考」により「説明文」を読み解き、「わかりやすい」文章を書くことをよしとする学習活動の開発・研究が盛んだ。その反面、どうやら「詩歌」教材は「わかりにくい」とされるのか、現場教員の間でも指導上の人気は高くないのが実情である。説明・論説文教材と文学的教材の間には、いつもその相反する矛盾をどう扱うかが考えられる。そして小説などの文学的教材でも、文学理論を導入して「論理的」に読み解く方法も取り入れられている。だが、あらゆることが「わかりやすく」処理されると、「答えは一つ」の正解主義に陥りやすい。「論理的整理」を導入しつつも、自ら「読んだ」ものを元にして自ら「書く」行為があってこそ、「思念」や「思索」を繰り返す学習者が育つことになる。この個々の思考に「説明」をつけるのは野暮というもの。「人生」には「説明」のつかない事態に遭遇することの方が、遥かに多いと言わざるを得ないからである。
大岡の引用する牧水『みなかみ紀行』の一節
「胸の苦しくなる様な歓びを覚えるのが常であった」と。
この境地に至るには、自ら命の限り「旅(=人生)」を続けるしかない。
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