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いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見む

2017-05-03
「いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見むこのさびしさに君は耐ふるや」
(若山牧水『別離』より)
人はなぜ山に登ろうとするのか?

若山牧水が恋人・小枝子を連れて根本海岸に2週間ほど滞在した後、半年ほどの作である。「まだ見ぬ山」とは、この時の牧水にとって何を意味したのだろうか?歌(短歌)とは元来、一首で独立して読む場合と、歌集のなどで連作として読む場合では、自ずと意味合いに変化が生まれるものである。古典和歌でも勅撰集の部立を見れば、「四季」と「恋」がその主要なものであるが、そこに撰歌された歌は、相互にどちらとも解釈できるものも多い。万葉集の部類に見られる「春相聞」などを考えれば、元来より相互に融合して詠むのが歌の常道であることが分かる。(創作主体が個の状況に起因して)「詠んだ」歌は「どう読まれるか」によって、その表現可能性が拡がり作品を豊かにしていくことになろう。翻って考えれば、「季」と「人」は現代人が考えるよりも、親和性の高いものといえるのかもしれない。牧水の恋の心情に詠まれた当該歌も、生きる上での普遍的な心情として解釈することが可能である。

毎度、教育実習の諸行事において、担当として学生に話す機会があると、牧水の「今日の一首」を贈ることにしている。この日は、今月下旬から公立小学校へ実習に行く4年生を対象に、附属小学校での事前指導が実施された。3年生まではこの附属校という実習に対して理解の深い環境で、学生たちは実習に取り組んできた。だが、教育現場ほど多様なものはない。各地の公立校には様々な子どもたちが待っている。この母なる附属校を巣立って、「一人の教員」として自立するに到るまでには、この公立校での経験が貴重だ。その多様な環境に戸惑い苦しみながらも、自ら課題を克服すべく実習に取り組むことで、学生たちは真の「教員志望」を固めて行くことになろう。まさにその「まだ見ぬ山」に「いざ行かむ」という時期なのである。人はなぜ山に登るのか?それは登った者しか決して見ることのできない、言葉にならない素晴らしい景色に出会うためである。こうした趣旨の実習に向けて、冒頭の歌を学生たちに贈った。

学生たちも声を出して歌を読む
「いざ行かむ」の声は学生たちの朝の身体を覚醒させる
「まだ見ぬ山」に向けて、現場感覚を再認識し「さびしさ」に耐える心を持つ。

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