ことばは人なり〜「不適切」は発言にあらず

2017-04-26
「ことば」への責任転嫁
「ことば」=「思考」=「人」
「ことば」への信頼がないわけにあらず

昨今「不適切な発言」であったという、釈明会見ばかりを目にすることが多い。「釈明」というよりも「言い訳」という方が適切かもしれない。それはさも「発言」の「ことば」のみが不適切で、「自分」という「人」は「悪くはなかった」かと言わんばかりである。むしろその「発言」を批判する側こそが、「おかしい」かのような「感覚」が蔓延しているように思えてならない。それは「ことば」で十分に説明できないことでも、内輪の「感覚」の論理に合致していることならば「正当」であるとして物事を進行させているように見える。その証左として「その批判は当たらない」とか「・・・するのは当然のことであります」といった紋切り型の発言によって、「その批判は異常であり私は正当な感覚だから文句をつけるな」と門前払いにしていることを、「議論」だとすり替えている。

学生のゼミでの発表を聞いて、「ことば」の細部を指摘すると「そういうつもりで書いたのではありません。」と釈明することも多い。成句として不均衡な語彙選択がされているのは、まさに言語感覚の問題であるが、多くの質の高い文章を読む量にも起因しているだろう。例えば、「(児童に)・・・させる」という表現は、指導者側の感覚を押し付けた学習活動だと受け止めざるを得ない。「学び手の主体性」が重要とする方向に現在の教育はあるゆえ、児童生徒が「自ら意欲をもって学ぶ」ことを主眼に教科教育研究も実践しなければなるまい。文章次元になると、さらに誤解を招く表現に出会う。「表現(文章)上このように受け止めるが」と指摘すると、「そのようには思っていない」と返答する。そこにゼミという「内輪」で提供する文章ゆえの、甘えが見え隠れする気がする。卒論は「内輪」で読むものではない。今後この大学で学ぶ見知らぬ多くの後輩たちが、その文章を読んで理解し啓発に及ぶものを目指して書かねばなるまい。いやさらに言えば、どこで誰が読んでも理解される文章である必要があろう。このような公共性や社会性というのは、せめて学生時代に学ぶことであると思うのであるが。

あまりにも子どもじみた愚行
繰り返すが「ことば」は「人」なのである
短歌は、そのことばが崇高に信頼されている稀少な文化的営為なのかもしれない。
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