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健康に向かう価値観ー「米国発」を考える

2017-04-25
「煙草」の辿ってきた道
「酒」はどこに向かうのだろうか?
「健康志向」という米国発価値観について考える

昨日一昨日の小欄記事をお読みいただき、いくつかのご意見をいただいた。「ほろよい学会」の座談でも指摘された「酒と恋の歌が少なくなってきた」ということを、どのように考えたらよいかということである。「恋」の方に関しては、従前から「草食系」とか「晩婚化」が社会的に指摘されており、「恋」に踏み出せない、踏み出さない若者が増えたという社会学上の報告を多く目にする。古代よりの短歌の歴史を考えるに、その起源は「相聞歌」にあるわけで、必然的に「恋」を詠う性質を歌は持っていることになるだろう。もしかするとこうした社会学上の報告に囚われるあまり、我々はそのように思い込まされているのかもしれない。SNS等が急速に発達したことで、「恋」が社会的に潜在化しただけなのかもしれない。このような意味で、学生が恋歌を題材に卒論を進めるとか歌を詠むことには、大学教員として内容のみならず社会的な深い「意義」を覚えるのである。

さて、酒はどうだろうか?いただいたご意見の中に「米国発の価値観」に左右され支配されているといった趣旨のものがあり、深く考えさせられた。イチローは以前から日本では「ビール」のCMに出演し続けているが(今年から会社を異動したようだが)、「米国発の価値観」では「アスリートとしてのイメージに疑問符」とされる指摘もあると教わった。イチローを尊敬している一人としては、ビールを選ぶ際にそのCMの影響を強く受けるのだが、CM上は美味そうにビールを飲み干すイチローの姿を見るに、果たして日常では飲むのだろうか?という疑問を常に抱いていた。いやむしろ「常飲」していないような人が「美味そうに飲む」ことに、CM効果があるのではと穿った見方をすることも。メーカーの管理としても「飲み過ぎ」を戒めるイメージを伴っていた方が、得策と考えているのかもしれない。昭和を遡れば、石原裕次郎のイメージはまさに酒と煙草である。刑事物では仕事中も常に煙草を手にしており、カウンターでブランデーグラスというのが定番な絵である。しかも「1晩ボトル1本」を空けるほどのイメージが、酒造会社にはこの上ないキャラクターであっただろう。それに好印象を持つ時代は、確実に終わってしまった。

ご存知のように、牧水は夭逝した。残暑厳しき9月であったが、なぜか屍の腐敗は進行しなかったという逸話がある。まさに、体内アルコール量の効果であると云われている。裕次郎も美空ひばりもたぶん、アルコールで命を短くしてしまったのであろう。こうした太く短い人生を、現在ではどう考えたらよいのだろうか?「健康」をはじめとする「米国発価値観」が世界を席巻することが、果たして妥当なのだろうか。そこには「健康」を過剰に意識し過ぎるがために、むしろ「健康を損ねる」事例が潜んでいることに注意しなければならないように思う。例えば、米国でのPhD(博士号)取得の道は実に過酷であり、日本の大学院がたいそう「甘く」見えるようだ。だがその内実を鑑みると、何のために「研究」しているのかがわからなくなるほどの状況が窺える。過酷さの中で心身の健康を害し、それで豊かな生き方なのかと考えさせられる。いつでも米国発の極端な価値観は、特にこの島国の住人には、不適合なことがあることを心得ておくべきかもしれない。本日、だいぶ話は右往左往してしまった。

酒はまさに「文化」でもある
「うまみ」という語彙に飛びつく米国人も多い
それゆえに「酒」の短歌を詠み続けたいと思うのである。
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