生徒の手紙〜教師冥利の

2017-04-22
ある生徒が授業担当の先生にくれた手紙
伝えたい気持ちを素直に一生懸命手書きして
この一通こそ国語教育のこれ以上ない成果ではないか

昨年から縁あって、関西の主に高校教員の方々と研究会や懇談する機会をいただくようになった。その都度、現場での国語授業の悩みや工夫などを率直に語り合う場となって、小生としても大変勉強になっている。教科教育研究に関わる以上現場の実情を知り、よりよい授業創りに貢献でき、更には自らも対象とする現場で授業実践ができなければならないというのが、小生のかねてからの信念でもある。こうした意味で、現場の実情が知れるこうした機会を持って、自らの視野を広げることが実に重要であると常々考えている。また地域性においても宮崎県のみならず、関西圏という都市部の教育の実情から学ぶことも多い。それによって、宮崎の教育を相対化し、真に何が問題であるかを炙り出す視点をも獲得することができると考えたい。見方を変えれば、自らが「生涯一現職教員」であるという意識を持つということであろうか。

詳細なことを記すのは控えるが、今回の懇談に参加したある先生が、生徒からの一通の手紙をもらったと云う。以前はあまり授業に前向きではない姿勢であったことを、自らが自らの「ことば」によって振り返り、「国語授業」に真の興味が湧いてきたことを素直に語る内容であったと聞いた。教員は往々にして無意識に「教える」こととは、自分の位置から自分の感覚で「国語」を押し付けようとすることだと勘違いしがちであるが、この先生のように生徒たちが心の奥底で意欲を持てるように啓発する工夫と努力が、不可欠なのだと考えさせられた。一方で「学校」には、まったく心では「分かっていない」にも関わらず、「大きな声でのハイという返事」を強制する悪弊が今もなお存在している。その場をやり過ごすために仕方なく生徒たちは本意にあらず、「ハイ」と声だけは大きいが生気のない声を発する。授業のみならずむしろ部活動などでよく見られる、こうした「分かっていないハイ」と同じ構造で、〈教室〉では欺瞞に満ちた音読や発言が繰り返され、音量の大きさという内実のない基準で「教師」は自らを欺いて納得しようとしていることが多いのである。このような「授業」における権威抑圧による自己欺瞞の構造を考えるに、恐ろしいことにそれがそのまま、現況の社会のあり方を映し出してしまっているのだと懇談を通して気がついた。それにしても、この先生のように感銘を受ける「生徒からの一通の手紙」をいただけるような心をもって、日々教壇に立ちたいものである。

常に生徒たちに愛情をもった工夫がある
それを仲間たちと語り合い共有する
「低唱微吟」による〈教室〉での音読についても、また新たな試みをしたくなった。

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