私のもとへ帰る「ありがとう」〜宮崎に「ある」ことの喜び
2017-04-18
「『お金』とは別の物語が、この宮崎の日々の暮らしには
豊かにあります。」(宮崎日日新聞「客論」永山智行氏2017年4月17日付より)
宮崎に来てからというもの、様々な方々と出逢った。友人となった方々が、TVや新聞などで報道されたり、何らかを執筆していたりする機会も珍しくはない。その宮崎なりの「密度」を、実に心地よく感じることもしばしばだ。この2月に演劇ワークショップをご一緒させていただいた、劇団こふく代表の永山智行さんが、新聞の「客論」欄を執筆して来て、今回で「卒業」となる記事に接した。冒頭の文に続き「風に吹かれる桜の花びらたち、広がる森の緑や、恵みもたらす田畑、波寄せる海や、滔々と流れつ川、そして、日々を誰かのためにこつこつと生きる人々。」とある。誠に宮崎に生きることの喜びを再確認させてくれる内容だ。さらには「いま、ここに『ある』。その喜びを、わたしたちに与えられた『生きている』という短い、奇跡のような時間の中、出会った人々と、ただ分かち合えたら、いまはそう祈るばかりです。」とある。
永山氏の「客論」のタイトルは、「ここに『ある』ことへの希望」である。「そしてまさしく『在り』『難く』わたしはいま「ある」のだ。相手を見つけた『ありがとう』は、やがてまたわたしのもとへ帰ってくるでしょう。」とあり、「誰もいない場所にひとり立つ。そして『ありがとう』とつぶやいてみる。」ことからはじまる「物語」の重要性を述べている。自らを存在させしめている他者を見つけ感謝し続けることで、巡り巡って「わたし」に帰ってくるということ。「弱く小さな存在である人間」が、いまここに「ある」ことを「喜び、味わい、祝う」ことがどんなにか生きる上で大切かを教えてくれる。そんな人間観を、都会生活は次々と強引に剥奪する。だが宮崎には、それが滔々として流れているのである。演劇的ワークショップの中で永山氏は、子どもたちがこんな「自己」の「ある」ことを楽しく喜び合える機会を提供していた。「声」と「身体表現」の「ある」ことに「ありがとう」を言えば、他者にも通じやがてそれは「自分」に帰ってくるのである。
「子どもじみたリーダーたちが、
何事かを「なす」ことで自己の物語を作り上げようとし、
免責と引き換えに、沈黙の承認をもってその物語を支える者たちもいます。」
(同、永山氏の「客論」より)
まずは、自らが「ここに『ある』こと」に感謝せねばなるまい。
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