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人の世の長くはげしき働きに

2017-04-13
人の世の長くはげしき働きに出でゆく前ぞいざ遊べ子等
(若山牧水『黒松』「やよ少年たちよ」より)
「遊ぶ」ことの意味を考える

「夢多き馬鹿」でいられたら、どれほどに幸せだろうかと思うことがある。思うのみならず、たぶんそれを実行もしている。人生が旅ならば、寄り道をして迷ってしまったり、唐突に計画を変更したからこそ出逢える風景が貴重だとも思う。20代の頃、職場の同期の同僚と欧州を列車で旅していて、己が前述したようなタイプであるのだと自覚した。偶然出逢った旅行者たちと、食事など様々な交流をしたいと思ったが、同僚はあくまで自らの殻の中で計画を遂行することを貫いた。その初任校に勤務していた頃、同世代の仲間から僕は「馬鹿」だと言われることが多かった。比較的、自由奔放な言動をしていたからだと思う。結局その「馬鹿」は、十数年を経て殻を破って見知らぬ世界に飛び出すことになる。「教員」として20代にしかできないことは存分に経験したが、あまりにも世間に対して溟かったゆえ紆余曲折の中で痛い経験もした。

冒頭の牧水の歌は、「少年のうちに存分に遊ぶ」ことを奨励している。それはいつの時代も変わらず必要なことだろう。「遊び」がないと社会に出てからの摩擦に耐え難くなるとともに、一度しかない人生に潤いがなくなる。「遊び」とはなかなか定義しづらい概念であるが、漢字の語源としては、「子どもが吹き流しのようにぶらぶら歩きまわること」と『漢字源』(学研)にある。「しんにょう」ではなく「さんずい」の「游」も同じような意味で、「水の上をただよう」といった意味である。「きまった所にとどまらずぶらぶらする。旅をしてまわる。」ということは「遊学」の語彙もあるように、人の視野を開拓するのに不可欠である。「あそぶ」ということを往々にして学校教育は否定的に捉えがちであるが、「学び」は「遊び」から起動するといっても過言ではない。詩歌はもとより、谷川俊太郎さんの作品にもあるように「ことばあそびうた」であろう。そしてまた、若き日の「恋」もまた実に大切である。「恋に遊ぶ」といえばやはり誤解を招きがちであるが、人として人を愛することを学ぶ、これ以上ない機会である。

『文學界5月号』から始まった連載が実に面白い
俵万智さん「牧水の恋」
先日の歌会で、僕が鑑賞した内容とも関連し今後の展開が楽しみである。
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