濡れて行こうというわけもなく
2017-04-11
一日中激しい雨が降りしきる春雨ならぬ季節の変遷を告げる
地球の恵み自然に生きるということ
先週、教育実習をお引き受けいただいている学校に挨拶周りに赴いた。車で周るゆえに、傘などいらぬ思いきや次第に雨が降り出して、同僚の先生に傘を差しかけていただくことになってしまった。「出掛けるときに降っていなければ傘は要らぬ」という、つまらぬ”主義”をどうも貫きがちである。また、東京在住時は折畳み傘を鞄に忍ばせる習慣があったが、宮崎に来て自家用車の生活になると、車内に長傘を入れておけば事足りると思い、携帯することもなくなってしまった。傘を差しかけてくれた音楽講座の先生が、「それは(傘を携帯しないのは)ヨーロッパ的ですね」と言ってくれた。周知のように、欧州の人々はあまり傘を携帯することもなく、雨で傘がなくとも走ったりしない。「自然」に対する感性の違いであるのか?それとも近現代になって、日本が自然と距離を置き、人間が過保護になったのか?などと考えさせられた。
現代生活、特に都会では何においても「雨」を「悪者」にするようになった。通勤通学の「足」に悪影響を及ぼし、吉事には「晴れる」に越したことはないと誰もが思い、「お足元の悪い中を」といった謙遜の挨拶常套句もある。ましてや「豪雨」や「降雪」ともなれば、「必要のない外出は控えましょう」と天気キャスターが物知り顔に宣言するので、懇意にする酒場の経営者などは「営業妨害」だと愚痴を言うことも多い。確かに、都会の雨は清浄なものではない。居住していたマンションのベランダは掃除をすると、黒い煤煙のようなものがかなり付着していた。特に3.11以降のそれは注意を要した。だが宮崎に来て雨を眺めると、自然に潤いを与えるもののように思えて来る。田植えが終わった田園に水を満たし、そこに生育する蛙などの生物を育む。大学や自宅近辺でも「遠田の蛙」が、この時季になると元気に鳴いているのが聞こえる。もちろん、南国は雨の降り方も強く、ここまで激しくなくてもという思いに至ることもある。それを含めて、「自然」と親しめる感性こそが、豊かなのであると思うようになった。
天の恵みたる雨
潤いをもたらすものは時として刺激的に痛い
人生にも様々な分野の「雨」が必要なようである。
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