海の底沈く白玉ー第310回心の花宮崎歌会
2017-04-09
海(わた)の底沈(しず)く白玉風吹きて海は荒るとも
取らずは止まじ(『万葉集』巻7・1317「玉に寄する」)
今月の宮崎歌会で、冒頭の「(秀歌)鑑賞」を担当した。現代短歌を取り上げようと思いきや、牧水のある歌を契機に『伊勢物語』『万葉集』の歌を取り上げることになった。「白つゆか玉かとも見よわだの原青きうへゆき人恋ふる身を」(牧水『海の声』所収)の歌は、牧水若かりし日に、宮崎へと帰郷し日南方面へと船で旅をした際に詠まれた歌である。恋い焦がれる小枝子への痛切な思いを表出した一首であるが、上二句に置かれた「白つゆ」と「玉」のモチーフが、『伊勢物語』第6段「芥河」ではないかということが島内景二氏によって指摘されている。「白玉か何ぞと人の問ひし時つゆとこたへて消えなましものを」という『伊勢物語』歌の背景は、なかなか恋人にできなかった高貴な女性を盗み出し夜道を逃げようとするが、雷雨に見舞われ蔵の中に女性を押し込めておくと、鬼に喰われてしまったという物語である。その後の、取り返しのつかない男の心情表出を詠んだ歌ということになる。
「白玉」は記紀歌謡より、文字通り「白色の美しい玉」のことで、特に海の底にある「真珠」を指して云う。転じて「大切に思う人。大事なわが子。」などに比喩的に使用された語である。冒頭に掲げた万葉歌も「海の底に沈む白玉を風が吹いて海が荒れたとしても、取るのを止めるわけにはいかない」といった素朴な歌であるが、「玉に寄する」歌群に置かれており、もちろん「白玉」は「美しく大切に思える人」のことを暗示している。同歌群には、「水底に沈く白玉誰が故に心尽くして我が思はなくに(『万葉集』巻七1320)」なども見えて、「我」の「恋」への思いを述べた歌もある。また、白玉は人に知らえず知らずともよし 知らずとも我し知れらば知らずともよし」(『万葉集』巻六・1018・旋頭歌)なども見えて、自らの才覚を世の人は知って欲しいと願う歌などもある。この日の地元紙「宮崎日日新聞」コラム欄「くろしお」では、大岡信さんの訃報に触れ、初期の牧水賞選考委員で第1回の記念講演の内容が一部記されていた。「自然に直接浸透する牧水の歌の特異性」といったことを大岡氏は講演で指摘したと云う。その文脈は確かめるに至っていないが、今回取り上げた牧水歌などにも該当する評であり「特異性」という点には注目したい。『伊勢』の歌なども当時の勅撰集入集歌などからすると「特異」であり、抒情の過大なる表出と物語性という意味では、共通点を見ることができよう。また万葉歌からの長きに渡る和歌・短歌史において、モチーフや語彙を「踏まえる」ことの重要性を、あらためて確認するのである。(以上、歌会での鑑賞の概要を記した。)
時間の縦軸の極めて短い一点を詠むのがよいとされていた短歌を、
牧水や啄木は横軸の「長い時間」を詠んだ歌人であった。
(佐佐木幸綱氏による本年の牧水賞記念講演の内容より)
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