音読・朗読は暴力にもなる

2017-04-08
読まない自由聞かない自由のない朗読
〈教室〉での音読・朗読は決して好む者ばかりにあらず
浴びせ・読ませ・聞かせる行為は暴力にもなり得る

「音読・朗読」に興味を持ち研究を始めて、かれこれ15年ほどになるだろうか。前提として、僕自身は誠に「朗読」が好きであるということをまず述べておこう。好きであるがゆえに、むしろ教員として独善的に〈教室〉で「音読・朗読」することが、学習者にとっては嫌悪感を抱く、ある種の「暴力」的な行為になってはいないかという懸念から、この分野の研究を開始したといってもよい。拙著にも記したエピソードであるが、新任教員だった頃、授業中に生徒たちの私語が止まず、「うるさい!」と感情的に暴力的な教師の権威に依存した言葉を〈教室〉全体に浴びせたことがある。その際に「お前の方がうるさいよ」と言って、真剣な眼差しで立ち上がった男子生徒が1人いた。僕が暴力的に放った言葉は、学ぶ者にとっては不快以外の何物でもなかったのだ。日常生活でもそうであるが、言葉・声は十分に「暴力」になる可能性があるのだ。この体験から僕は、「教室の声」に関して深く考えるようになった。

声を「浴びせる」だけが「暴力」ではない。「浴びせる」があるなら学習者側は強制的に「聞かされる」側に立つ。また学習者が受身で読みたくない状況下で、強制的に「読ませる」行為もまた同じ。だがしかし往々にして〈教室〉では、この「暴力」こそが「教育」なのだと、すり替えられる傾向が強い。したがって学習者は教師の権威に逆らえないがために、その意味内容に興味を持つわけでもない教材を、”無駄に”大きな声で、感銘を受けていない内容にさも感銘を受けたかのように昂揚した調子で、声に出すことを強制される。やや誇張した物言いをしたが、程度の差こそあれ、こうした「暴力的」音読・朗読を強制してしまっている〈教室〉は多い。何よりそのことを「教育」だと思い込んで疑わず、実践している指導者に自覚がないことも問題である。特に内容的なことに判断力のない幼児の段階から、こうした「暴力」を浴びてしまうと、その内容に疑いを持たなくなり身体に刷り込まれてしまうという怖さがある。昨日のWeb記事で読んだが、選挙運動中の街宣車からの名前連呼は、その候補者の信任如何を問わず「投票してしまう」行為に繋がるという関西学院大学の「社会心理学」関係の研究報告が報じられていた。それを心理学では、「単純接触効果」と呼ぶのだと教えられた。

「声に出す」ことに対しての無自覚が横行している
僕たちはメディアの「連呼」にも注意しなければなるまい
「暴力」を「教育」や「正義」に置き換える、愚かな思考を憂えるばかりである。

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