われとぞ知りて眼眩むごとし

2017-04-01
「逃れゆく女を追へる大たわけわれとぞ知りて眼眩むごとし」
(若山牧水『独り歌へる』より)
ふと己の現状に気づいて「眼眩む」ばかり・・・

3月は特異な時間が流れるように思う。仕事上で学生たちに会うこともなく、会議などで同僚の先生方と会うことはあっても比較的、研究室で過ごす時間が必然的に多くなる。「独り」になるということは、己の思い込みの世界にだけ没入する場合もあれば、逆に極端に己を客観視して様々な思いを抱く場合もある。それと並行して研究室の整理などしていると、この1年間が如何様に流れてきたかなどを捕捉する精神作用が働き、己の不甲斐なさとともに駆け抜けた道での落し物を見つけるごとき感懐を抱いたりもする。そうした意味では、やや立ち止まって振り向く視点を持つことで、これから歩む道を照らすヒントが得られることもある。もちろん、それは公私にわたって「振り返れば道がある」のである。

冒頭の牧水の掲出歌は若かりし日の歌で、戸籍上は人妻で子どもも2人いた小枝子を何とか説得したいと追いかけている折に、己を「大たわけ」だと客観視した思いを詠っている。俗に「恋は盲目」とも言われが、情熱的に彼女を求める牧水の恋心の切なさが思い知れる。その実らないであろう恋愛が牧水の感性を揺さぶり続け、結果的に秀歌を多く生み出している。歌とは古代からの歴史を見ても、元来が「相聞(恋歌)」の性質を持っており、他者に思いを「うったえる」ゆえに「うた」だという語源説もある。牧水は青春時代にこうした恋愛への苦悩に身を置き、詠うことで自己を客観視していたのであろう。2月の牧水賞授賞式における佐佐木幸綱先生のご講演で、「短歌とは時間軸の縦の極めて瞬時を捉えて詠むのがよしとされていたが、牧水や啄木は横軸に”長い時間”を詠んだ歌人だった。」という点についてそれ以来、大変興味を持っている。ある意味で時系列な歌の物語性ともいえようか、自らをその「主人公」に措定して平易なことばで心情表出する。こうした明治の若者の歌のあり方について、諸々と探究してみたいと思っている。

「大たわけ」と自らを思えるこころ
駆け抜ける年度の折々に、歌で物語を刻んでおくこと
さあ!宮崎での5年目がはじまる
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