横綱稀勢の里の優勝に思う
2017-03-27
横綱稀勢の里優勝昇進時の「精進」を有言実行
物事は総合的に見てから判断せねばなるまい
昨日小欄に書いた記事を、聊か訂正しなければなるまい。大相撲春場所千秋楽で、重い左肩の負傷を抱えながらも、横綱稀勢の里は大関照ノ富士に勝ち優勝決定戦に持ち込み、そこでも堂々の相撲で2番連続で勝ち優勝を決めた。前日14日目に負傷を押しての相撲は、あまりにも力なく状態は厳しいと誰の目にも映ったはずだ。だが、この日は痛みさえも感じさせない相撲を見せたが、さすがに優勝賜杯を抱く時には、顔を顰める場面もあった。「怪我を押して」には賛否があろうが、これぞ横綱昇進時に稀勢の里が一言素朴に述べた「精進」の体現ということだろう。「精進」とは元来は仏教語で、『日本国語大辞典第二版』によれば(1)ひたすら仏道修行にはげむこと。(2)「転じて、一定期間、言語・行為・飲食を制限し、身を清めて不浄を避けること。」(4)「一生懸命努力すること。」(5)「品行をよくすること。」(一部記述を割愛)などとある。この日の稀勢の里の水を受け塩で清める姿には、まさに相撲とは何ぞやを考えさせる迫力があった。
それにしても「勝てる」という予想は、誰もがしなかったであろう。むしろ対戦相手の照ノ富士の表情にこそ、大きな油断が生じていたように思われる。物事は最後まで、その結果はわからない。あらためて、総合的に見てから判断する必要性を学んだ気がした。怪我を押してが、周囲からの強要や「空気」によって為された訳ではなく、あくまで自身との対話と矜持をもっての決断であったゆえの結果であろう。欧米ではこうした場合に、まったく合理的な判断がされるかといえば、そればかりではない。1988年ワールドシリーズ初戦のドジャース対アスレチックスの一戦は、9回裏アスレチックスが4対3でリードして守護神の登板。走者1塁の場面でリーグチャンピオンシリーズで足を負傷したカーク・ギブソンをドジャースの名将・ラソーダ監督は代打で起用した。1球2球目の空振りスイングを見るに、軸足の痛みが激しそうで、誰もが打てる望みは薄いと感じたことだろう。だがギブソンはファールで粘り続けるうちにタイミングが合いだし、フルカウントまで粘った後に逆転サヨナラ本塁打を右翼席に放った。そのスイングは、ほぼ左打者の右側壁一枚(つまり右手・右足のみで打つような変則スイング)で持って行ったという印象であった。ギブソンは足を引きずりながらダイヤモンドを一周し、歓喜のチームメイトが出迎える本塁を踏んだ。結果的にこのワールドシリーズは、ドジャースが制することのなるが、ギブソンの打席はこの1打席のみであった。プロ意識の打撃と「精進」の一差し、可能性を信じて諦めないということは、自らを十分に客観視できてこその所業であろう。
短絡的な判断こそ愚かなことはない
焦らず「いま」の自分を見極めていくこと
稀勢の里の優勝が多くの人々に勇気を与えたことは言うまでもない。
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