休まないことと勇気ある撤退

2017-03-26
横綱稀勢の里
左肩の状態は本人しかわからないとか
休場せず取り組みをする姿勢やいかに

個人的には、基本姿勢として「休む」のが嫌いなたちである。中高一貫校在学時には、「6ヵ年皆勤賞」なるものをいただいたほどである。現職教員となってからもほとんど「病欠」した記憶はない。だがそれはあくまで、「無理」をして成し得た訳ではない。「学校に行きたい」という気持ちに突き動かされて、病気もしないから結果的にそうなったのだと思っている。社会人となってからは、むしろ信念をもって生きる上で「必要」だと思った際には、「仕事」よりも自らの「心」に従うこともあった。その柔軟な見極めというのも、とても大切であると実感している。こうした個人的な考え方もあって、大相撲春場所で横綱稀勢の里が、左肩の負傷を押して出場したことには、ある種の深い思いを抱いた。少なくとも前日の取り組みで負傷した際には、かなりの怪我だと誰もが思った状態であっただろう。だが、本人は怪我の状態などへのコメントは控えて、この日も「出場する」ということを親方も認めたのだと云う。ニュースでも放送局によっては冒頭あたりでこの事態を報じ、ファンが稀勢の里の状態を案じながらも期待するコメントを寄せていた。

両親が自宅に滞在している時以外は、あまり大相撲中継を観ないのであるが、この日は4時半頃からテレビの前に陣取った。土俵入りに関しては、まず問題なく同じ表情でこなしている稀勢の里関。自ずとファンの期待も高まり結びの一番を迎える。懸賞は17本が土俵上を巡り、映像の関係で数え切れなかったが2巡目もあったので、その倍の数ほどの懸賞があったのだろう。稀勢の里への期待の高さが、この数に表れていた。いざ取り組みとなり稀勢の里の開始までの動作や表情は、普段と何ら変わらない。まさに”ポーカーフェイス”、喜怒哀楽や痒い痛いは表面に出さないのが、稀勢の里の信念であり美徳とされている点であろう。そして横綱・鶴竜との取り組みが開始されると、ほぼ数秒かで稀勢の里は力を入れることなく土俵外に押し出されてしまった。もちろん、負傷した左側をかばうようにである。ファンの期待は、溜息に変わる間もなかった印象であった。

さて、稀勢の里関を批判する気は毛頭ないことをお断りしつつ、聊か思ったことを記しておきたい。素人ながら「肩・胸」は、相撲にとって誠に重要な身体箇所だろうと思う。今回の「強行出場」は、医師の診断の埒外で本人が決断したことであろう。懸念されるのは「筋断裂」などであろう症状が、今後の関取生命に致命的な打撃に至らないかということである。新横綱の場所であるゆえの責任もあるだろうが、今後を長い目で見た際の責任もあるはずだ。その後、ある放送局のニュースを観ていると、ファンの方が「神風が吹くのを願っていた」とコメントしていた。満身創痍の状況で撤退ではなく抗戦し、あらぬ「奇跡」があるだろうと願う精神構造が危うい、ということを我々は痛いほど知っている筈である。野球などでも同じであるが、肩が痛い素振りを見せずに考え難い球数を投げ抜くことや、デッドボールに当たった際も痛い素振りを見せないことが、果たして選手として妥当な姿勢なのかと疑うこと多い。むしろ「痛いものは痛い」と言える勇気ある撤退こそが、個人を追い込まない社会のあるべき構えではないのか。この国の隠蔽体質は、こんな点にも関連しているのではないかとさえ思うのである。いずれにしてもスポーツならまだ、「尊い」と言えるのであるが。

残業問題、教員の部活指導など休日の扱いについても
休まず仕事に身を投じることを美徳とする体質に起因している
稀勢の里関が大横綱として、長く活躍し続けることを願うばかりである。

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