「詩的現実」なら美しいのだが

2017-03-24
「昨夜(よべ)ふかく酒に乱れて帰りこしわれに喚(わめ)きし妻は何者」
(宮柊二『晩夏』より)
「のんで帰った時の俺の気持ち」即ち「詩的現実」であると宮は謂う

冒頭のような宮柊二の短歌があり、実際に妻に問うと「喚いたことなんてないじゃありませんか」と言うのに対して宮は「詩的現実」であると答えたという逸話を、伊藤一彦氏の『短歌のこころ』(鉱脈社2004)に教わった。宮の妻の述懐に拠れば、酒に酔って帰宅する際に夫は「悪いな」という気持ちを抱き、それがやがて「おっかないな」になり「仏頂面」で帰宅するのだと云うことが紹介されている。短歌というのは、特に近現代短歌は、必然的に「われ」を創作主体とし、その「現実」=「日常生活」を題材にしているゆえに、「詠んだ」内容を事実として考えがちである。実際に毎月の歌会でも、とりわけその後の懇親会の場で、何処で詠んだのか?とか、相聞歌の内実などが問われることも多い。

毎月の歌の投稿があるゆえに、最低でも月に8首は歌を創り批評の場に提出している。この「創り続ける」ことは、どこか身体鍛錬にも似て、継続することに意味があると実感を持つようになった。それらの歌の推敲をしていると、自ずと「詩的現実」が起動し始めることも感じるようになってきた。もちろん題材は「日常生活」の中に取材しているのだが、その「現実」としての「過去」を、より美化したことばとして紡ぎ出す行為をしているのである。まさに「詩的」に「あそぶ」といった感覚となり、その最中の思考は実に面白い。などと短歌を楽しみながら、巷間のニュースを目にすると、まったく何が「現実」なのかわからない混線した状況が窺い知れる。まさに「政的現実」というものでもありそうな、感覚の差異をもってした「証言」と「否定」の応酬合戦である。「美しさ」を彼方に忘却してしまった人間の弁舌は、誠に空疎な限りである。

こころの豊かさを拡げる短歌
今月の「詩的現実」も投函した
ことばは、本来美しいものだと信じる人でありたい。
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