年齢なんか「ただの数字じゃないか」

2017-03-22
“Just a number”
「年齢を考えたこともないし、歳をとるとも思っていない。」
(城山三郎『よみがえる力は、どこに』から、リチャード・バックとの会話より)

知人がFBへの投稿で、冒頭のような城山三郎の講演録の一部を引用していた。城山が「かもめのジョナサン」の著者であるリチャード・バックに会った際の会話であると云う。確かに人は、「ただの数字」に過ぎない「年齢」に囚われてしまいがちである。だが「年齢」とは、生まれてからの「時間」を「ただの数宇」に置き換えて示しているに過ぎず、その人の本質を表しているわけではない。今まさにこうして小欄の文書を綴っているのは、その内容に意味があるのであり、「書いている」時間がどれだけ経過しているかを、概ね問題としない。翻り、お読みの方々においても、その内容に入り込めば入り込むほど、「読むため」の時間経過を問題としない筈である。「充実した時間」というのは、むしろその「時間」そのものに対して「無意識」になった時に他ならない。「この年齢」だから「こうである」のではなく、「我を忘れて生きている」ならば、「ただの数字」であると言い切れるのであろう。「時間」を意識するゆえに、空疎なことしかできない時ほど、つまらないと感じることはない。読書でも表現活動でも、これは同じである。

6日間に及ぶ在京を終えて宮崎に帰った。丸四年という宮崎での「時間」を意識する場合もあれば、あの時と変わらぬ希望が胸にあることにも気づかされた。毎年、宮崎を訪れてくれる落語家さん、宮崎に至る直近の混迷した道程を支えてくれたお店の方々、中学校時代の恩師と同級生、大学院研究室の先輩後輩、そして生まれてから常に見守って来てくれた両親、こうした人々とあらためて語り合うことは、「時間」を遡求することではなく、「今」を見定めるためのように思えて来る。記憶も思い出もまさに「今此処」にあるのであって、「年齢」という「数字」の中に閉じ込められているわけではない。会いたい人と会う時の「時間」などは、言うまでもなく「無意識」の領域である。昨今はスマホの普及によって、その都度の「事実」を写真として記録しやすくなったが、肝心なのは「静止画」なのではなく、「こころの動き」ではないかとも思う。それゆえに小欄のように日々の思いを綴る必要もあるのだと再確認する。最終日は冷たい雨の降る東京。秋10月に宮崎で開催する学会の打ち合わせを、事務局担当の先生と行う。美味しいランチを伴ってのそれは、誠に充実した内容で秋への希望が倍増した。「食べながら」の行為が、まさに「時間」という「数字」を消して、満たされていく階梯を登るがごとく話し合えたゆえであろう。

宮崎に帰ると偶然に親友と出会う
「ただいま」とともにまた「今」を生きる
「時計の針」という「装置」に囚われず、「今」踏みしめている地点を歩くのである。

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