「よし」としない自分の立ち位置

2017-03-21
「『よし』と言うこともしなければ、
ほめることもしないのです。」
(朝日新聞2017年3月20日付「折々のことば」から)

朝日新聞「折々のことば」にある能楽師・安田登氏の冒頭に記したことばが目に止まった。「能の稽古では、師匠は弟子に『それでよし』とは断じて言わないのだという。」と同欄にある。安田氏とは以前にSNSを介して何度か交流したことがあるが、現代社会が忘れてしまっていることに気づかせてくれる感覚を持った方だと思っていた。昨今は、「抵抗」を怖れるがゆえに、過剰に「よし」という社会になっているのではないかと思うのである。同欄によれば、「教える人もつねに途上にあり、変化をしているからだ。なのに『よし』と言うのは、その進化を止めて、いま自分が立っている地点を基準に良し悪しを判定することにほかならない。」とある。「よし」と言った時点で「教える側」も「学び」が停滞し固着し、やがて頽廃していくことになるということであろう。「学ぶ」は「まねぶ」ともよくいわれるが、同欄には「ひたすら師の緊張感と気迫をまねるばかりだ。」ともされている。まずは「教えるもの」こそが、途上だと自覚するしか子弟の向上も望めないのである。

果たして自分はどうか?と胸に問い掛けながら、久しぶりに実家の机の引き出しを整理した。過去の免許証や学生証、引き出しゆえにその時々に重要だと思われた書類が顔を覗かせる。その随所には思い出もあるが、苦み走った経験もが刻まれており、次第に複雑な心境になった。それでも尚、学部の恩師から院生時代にいただいた修論への感想が記された葉書などもあり、再び自らの学問を考え直す契機にもなった。総じて自身の過去の道をこうして見返してみると、決して自分で自分を「よし」とはして来なかったのだと再確認した。現職教員であった己を「よし」とはしなかったゆえの大学院進学、勤務校も公募で移動し、安定を捨てて大学非常勤の荒波に揉まれたこともあった。現在の勤務校で大学専任となり丸4年、もちろん自らを「よし」とは思っていないつもりだ。常に現状を見直し更新することで、明るい未来が開ける。実家の電話やネット回線の契約に関しても、十分に見直すべきだと母に進言した。

その後に家族でいつも変わらぬ老舗でランチ
「変わらぬ味」とは「よし」としない意識ゆえに保たれるのであろう
浅草・上野の活況ぶりも、新しい時代を受け容れたからにちがいないのである。
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