短歌と落語の交差点
2017-03-17
口誦性から歌は始発し落語はもちろん江戸からの話芸
滑稽・洒脱な狂歌と落語のことなど・・・
「床屋政談」とはよく言ったもので、散髪をしながら世間話をするのが通例である。昨今では10分程度で済ませてしまう廉価な「コンビニ」のごとき床屋も見かけるが、髪結処は「政談」をしてこその場所と江戸時代から相場は決まっている。この日も、現在の政治への不信感が募るという話題やWBC日本代表のことなど、批判的な立場からの「政談」が続いた。その後は母校の図書館に立ち寄り、聊かの資料収集。さらには親友の落語家・金原亭馬治氏と、ある支援者の方と酒宴の席を設けた。落語にも時事ネタは付き物であるが、床屋も落語家も「お客様」には様々な立場の人がいることを忘れないのが重要だと云う。野球の「贔屓チーム」に対しては「中立的」であるべきで、政治に対してもある立場からの批判は避けるべきであろう。だが、その境界線上で対話する相手に適応した皮肉や洒脱が、求められるということだろう。これはある意味で、「教員」もまた同じである。
「洒脱」とは、「俗気がぬけて、さっぱりしていること。あかぬけしていること。さっぱりしていて、嫌みのないこと。また、そのさま。」(『日本国語大辞典第二版』より)とある。「聞くもの」を微妙にくすぐりながら、粋な計らいある会話ができる境地であろう。落語にはよくマクラに、狂歌がふられることがある。「傾城の恋はまことの恋ならず金持って来いが本当のコイなり」などは廓噺のマクラになる狂歌で、僕も嘗て一席でふったことがある。「風刺画」に見られるような滑稽さとともに訴える力が必要である。この日は短歌の口誦性・愛誦性と話芸としての落語のあり方などについて、僕の『短歌往来』掲載評論にも基づき様々な懇談に及んだ。ともに口誦性があるからこその効果や、「文字」として遺らないゆえの存在価値が江戸からの明治初頭まではあったわけで、あらためてその共通点などを考えるよい機会となった。
こうした関係から、僕の「短歌」主題のひとつである「落語」
口誦性と朗誦性についてさらに追究してみたい
酒の肴になる懇談もまた「後に遺らない」洒脱である。
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