アンチテーゼの美学
2017-03-16
「反対の意見。対立する理論。」({ドイツ}Antithese )
(『日本国語大辞典第二版』見出しより)
小中高大そして就職しても暫くは、熱狂的な巨人ファンであった。父が長嶋茂雄さんの大ファンであり、監督解任時には一夜にして某新聞の購読を断ったことは、我が家に鋭敏な理性があると子どもながらに印象的な出来事であった。「巨人ファン」であると必ず「俺はアンチだ」という人と出会い、その反論を聞かされることも多かった。特に大学生になってからというもの、そうした先輩後輩友人がたくさんいたが、なかなかその感覚に流れることはなかった。それが面白いことに、現職教員をしながら大学院に再入学し研究を始めた頃から、まさに自らがその「アンチ」の考え方なのだと自覚するに至った。もちろんそれは「研究」という立場は、「反対の意見。対立する意見。」を述べることが前提で成り立っているからであろう。冒頭に記した『日国』の第二項目には、「テーゼ(定立)に対する語。特定の肯定的主張に対する特定の否定的主張で、・・・」とある。ある意味でこの立場がなければ「肯定的主張」も成り立たなくなるのが哲学的理論である。だがしかし、学校空間では特にこの「否定的主張」を堂々とできる機会が妨げられているのではないかと思う節がある。今でも横並びで足並みが揃うことを美とする、閉塞的な考え方が跳梁跋扈していることがあるように思われる。
先日来、開催されているWBCの試合を観ていても、同様な「アンチテーゼ」の自覚が今回は特に強い。06年09年のイチローが参加した2回の大会に関しては、かなり入れ込んで「日本代表」を応援していた。それでも尚、球場に行ってスコアブックをつけたりしながら、冷静に分析しながら観戦していた自負はある。そのお陰で、球場の席が近くであった実に野球界に精通したLA在住の友人もできた。あの付和雷同的で集団的な”バット型メガホン”を掲げて音楽に合わせて一斉に同じ動作・掛け声を放つ行為を、「観戦」とは見なせない感覚がある。「野球」の真髄を見極めるのではなく、その「応援集団」に属することに安心感を覚えるような気分。投球や打球への”歓声””悲鳴”といった反応が、明らかに日米の球場で大きな差があることに気づいてしまったのだ。幸いにも全勝で、1次2次ラウンドを抜けて準決勝に進出した「日本代表」である。選手たちがその力を存分に発揮したゆえの結果であるが、投手継投を中心に首脳陣の采配への不安は大きい。試合をTV観戦するたびに、ある種の「アンチテーゼ」を弄した感覚を起動させながら、それを観ている自分がいる。こんな話題を、今夜は親友の落語家さんと懇談することになっている。
「俳諧は元来和歌に対するアンチ・テーゼとして発生すべきものだった。」
(俳句の世界〈山本健吉〉日本国語大辞典第二版 用例より引用)
「対立する理論」を封じ込めるような言動は、自らの存在を危うくするのである。
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