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評価の客観性について

2017-03-14
講義内活動の評価をどうするか?
そしてまた「短歌」はどのように評されるか?
ルーブリック評価の研修会に参加して

FD研修で「ルーブリック評価」についての講演があった。既に中等教育などでも導入されているが、授業内の活動などにおいて観点別の到達度を評価する指標であって、自己評価に使用することも多く、受講者が「つけるべき力」を意識して学ぶことができる。授業内パフォーマンス(プレゼンや表現活動)・レビュー・レポートなどの背景となる過程を、明確な観点で評価する基準を明示できるという特長もある。元来は米国の大学で行われてきたものであり、日本の大学での導入率は未だ低いのだと云う。翻って言うならば、評価観点が示されなければ主観的な評価にならざるを得ず、何をどのように達成すればよいかといった努力の道筋も見えなかった訳である。嘗て僕の学生時代などは、先生が答案を飛ばしてその順に成績評価をしていたという冗談が、語られていた時代もあった。

一方で「短歌」を評価する場合、こうした「客観性」という立場からすると、まったく違った道筋があるように思う。歌会のような「対話」の場を持ち、様々な方の「読み」を聞いて自分の歌を自分の内部で自己評価していく。そうした多様な評価を分析・検討して、自らの歌の良し悪しを把握していく。明確な基準表がある訳ではないが、基本的な暗黙の「決まりごと」に則り、自他の短歌を評していく。より多くの人気を集めればよいかといえば、そうともいえない。僅かな玄人にしかわからない繊細な表現がよしとされることもある。これを世間では「主観」というのかもしれないが、「人の心を種として」いる歌には、やはり「心の琴線に触れる」といった点が重要であるといえるのではないだろうか。その暗中模索なことばの森を冒険するような行為であるからこそ、短歌は人生を表現できるのであろう。とはいえ、かなり客観的で的確な評をいただくこともある。自分の創作過程が再現され要所を掴んだ評は、その人に心が通じたような感覚に至り、「短歌」をやっていてよかったと思う幸せに至るのである。

客観・主観の融合
杓子定規に測れるものではないことばの彩
「評価」に押し潰されぬよう、豊かな「表現」活動を続けるしか道はない。
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