魂一つここに生きゐて汝が声を聴くー短歌と声ふたたび

2017-02-27
「夜半の海汝(な)はよく知るや魂一つここに生きゐて汝が声を聴く」
(若山牧水『海の声』より)
短歌と声についてふたたび

昨日に引き続き、牧水若き日の恋の歌。歌というのは面白いもので、以前に読んだ時にはそれほど心に留めない歌でも、再読した際の状況や時節によって、深く心の底に共鳴するものである。若き日の恋というのは誰しも苦い思い出もありながらも、忘れ難い経験として心のアルバムの1ページを飾っているのではないだろうか。でき得るならば「あの日」に戻って恋に乗じてみたならば、「その時」よりは上手く振る舞えるかもしれないなどと、戯れた思いまでもが起動するものである。思い返すに学部時代に学生合宿の送迎車内で、佐佐木幸綱先生から「失恋でもすれば歌が詠めるよ」と個別に声をかけていただいたあまりにも贅沢な経験がありながら、歌を詠むのが「ここ最近」になってしまったことに聊かの後悔を持ちながらも、「恋」は年齢に関係ないなどということも考えたりする。

『短歌往来3月号』(ながらみ書房)に掲載いただいた評論の反響が聴かれるようになった。「歌が口から離れて視覚情報偏重になってしまったことを再認識した。」といった趣旨の感想を聴く。「自作歌の読み上げが上手いか否かで、『調べの良さは七難隠す』といった批評が歌会でなされる。」などもあるが、「調べ」が「難」を「隠す」のではなく、「調べ」そのものが「短歌」の重要な骨組みであると考えたい。また「朗誦」の「誦」の文字は「踊」にも通じるので、「歌は声でするダンスで、「踊る」ようにはつらつと声にするのが歌なのでは。」といった感想もあった。漢字の偏と旁との類同性に着目した意見であるが、漢字表記に注目できるようになったのも「文字表記」を「読む」文化が奥深く日常に根付いていることを感じさせる。「声の文化」の眞相というのは、こうした「現代」の抱え込む日常性の埒外にあるのだと思う。こんなことを考えると、あらためて牧水の歌が心に深く沁み入るのである。「汝が声を聴く」のは「魂一つここに生きゐて」いる「我」ということ。眼前には「夜半の海」が虚像か実像か、波の音を伴い一面に広がっている。「海の声」も聴きながら「汝が声」を聴く牧水のやるせない恋心がたまらなくいい。やはり「恋」というのは、お互いの「生きゐて」いる「魂」を向き合わせて、その表出たる生の「声」を聴き合うことなのだと、つくづく感じ入るのである。

「文字」に「魂」はあるか
やはり生の「声」ほど「魂」が感じられるものはない
牧水の歌は、明治以降の近代における「病弊」をも炙り出してくれるのである。
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