求めるものは正解と効率化だけか

2017-02-25
「その批判は当たらない」
だから、なぜどのように「当たらない」のかが「議論」
個々の意見が違うからこそ、対話して擦り合わせて生み出すということ

「生き方に正解はない。」といった趣旨のことを、講義で折あるごとに説いている。大学生になっても「最後に先生の言う正解」があるのではないかという姿勢で、自らの頭で考えようとしない傾向が学生たちに覗き見えるからだ。高等学校で大学入試対策の授業に明け暮れ、センター試験のような客観式問題であれば、いずれかの選択肢が「正解」となるので、そうした思考態度になっているように思われる。「用意されたもの」から「選ぶ」ことと、「白い紙の上」に「自らの思考を描く」のとでは、その過程に大きな違いがあるだろう。例えば、レポートなどでも、題材たる小説・詩歌などを提供して、「自ら」を起ち上げて「問い」を創り、そこから「思考」を展開する方式を採ると、「どのように書けばよいでしょうか?」といった質問に来る学生がいる。やはり彼らは「選択肢」が欲しいのである。だがしかし、その「正解」があるはずの「選択肢」が極端に偏っていたらどうするのだろうか?「本意」ではないけれども、「枠内」からやむを得ず選択するという行為は、誠に危うい思考を助長してはいないだろうか。

国会など仮にも「議論」の場でありながら、「その批判は当たらない」といった答弁が甚だ気になっている。特に理由を述べるのではなく「あなたの考える範疇でわたしは考えない」といっているようなもので、「自らの考える選択肢の枠内」でしか物事は考えませんと言うのに等しい。元来、「議論」する必要があるのは「個々の意見がみんな違う」ことから、多様な角度で複眼的に物事を解決に導くためなのではないだろうか。「議論」にも何らかの「正解」があって、その一点に向かって効率化を図って進められるべきものと考えられているとすれば、それは「茶番」に過ぎない。「スピード感」「迅速」「効率化」という語彙も、やはりこの「茶番」の促進に機能を発揮する。「選択肢以外は議論の対象にならない」という排他的な発想が、「創造」にはほど遠いのは明らかであろう。たぶんこうした「選択肢の枠内」という思考が蔓延している状況を、我々市民が見逃してきてしまったことが、例えば「豊洲市場」の問題などとして露出してきているようにも思う。その「茶番」が「茶番」で上塗りされないよう、僕たちは注意深く自らの頭で考える必要があるのではないだろうか。

「間違って」こそ初めて見える道がある
「寄り道」をしてこそ一生一度の光景に出逢えるかもしれない
「生きるということ いま生きているということ」
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