「音読」は自他に向けて放つ
2017-02-24
音読は誰に向かって為されるか?他者に伝えるとともに己に聴かせている
自らに語りかける声を聴いて連繋思考が起動する
芸術家派遣事業最終日。もう慣れ親しんだ道すがら日向市まで快適な運転。親しみを覚えてきた小学校1年生の子どもたちの顔と声。この日は、僕がまずは1コマの授業、その後は『スイミー』を教材にした担任の先生の授業が実践され、その後に授業研究会が持たれた。この日のテーマは、「対象に語りかける」こと。山村暮鳥「雲」を教材にするが、やはり「文字」は使用しない。その大きな理由は、詩を「読んで欲しくはない」からである。詩は語りの声の訴えであることを自覚し、自他の声を聴くことを意識化する必要がある。この自他への「聴く」意識がないと、いくら「音読」をしても「文字」を「音」にしただけで、「意味」いわば「思考」が起動しない。考えなくとも単純な「音読」は、できてしまうことが問題である。最初にお互いに「おはよう」の挨拶をして、その声を聴き合う。そしてまた、その「おはよう」を「こわく」「かなしく」「すばらしく」「にじ色」「あか色」など、様々な表情を声に与えることで、この日の準備運動とした。その後は、窓から空の雲に向けて「おーい 雲よ」と呼びかけて動作や表情も使うように指示する。純粋無垢な1年生たちの声が、日向のやや曇った大空に向けて気持ちよく放たれた。
後半は、俵万智さんの歌「うちの子は甘えんぼうでぐうたらで先生なんとかしてくださいよ」を使用し、4人1組で活動。一人が「お母さん役」二人が「子ども役」あと1人が「先生役」となって、この短歌の場面を再現する。「お母さん」の言葉を聴いて「子どもたち」は、「甘えんぼう」や「ぐうたら」を動作化して表現する。下の句になると「お母さん」が、先生に手を合わせて懇願するような動作をしながら声で訴える。中にはその後の「先生」の言葉を創作し「返歌」(さすがに1年生なので五・七・五・七・七にはなっていなかったが)する児童も現れた。短歌の場面再現とその言葉が対象に投げかけられていることを体感するワークショップである。班別に練習していると、次第に手拍子をとる児童たちが現れて、短歌に韻律があることを理屈ではなく体感しているようだ。このあたりはやはり「文字」ではなく、「音(声)」でこの3日間で実践してきた成果が現れたと自己評価できる。最後に「たんか」にこれから親しんでくださいと訴え、「わかやま ぼくすい」の名を出すと、さすがは日向市の小学校児童だ、保育園の遠足で牧水公園に行ったことがある子どもたちも多勢いて、誠に嬉しい気持ちになった。
かくして3日間のワークショップが終了
担任の先生の授業後の研究会でも「音読」について活発な議論が
そのあたりについては、またあらためて。
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