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咲き出す春が来るー「対話的」ということ

2017-02-18
あっ!と思う時
自分を外側から見られるようになる
籠る冬を過ごせば咲き出す春が來る

16日付小欄にも記したように新学習指導要領の方向性が報じられたが、その要となる考え方に「対話的」がある。これは決して新しい概念であるわけではなく、かなり昔から使用されていた用語である。だが、その意味内容の捉え方は時代とともに変化してきており、ともすると勘違いされやすい用語なので注意をしたい。一般的な意味で考えれば、一人が他者と話していれば「対話」ということになろう。もちろんそれで「対話的」になる場合もあれば、そうでない場合もある。つまり形式ではなく、二人以上が如何様に話し合い混沌とした錯綜を繰り返し思考を活性化し、それまでになかった新たな気づきを得るかという点が重要なのである。「話し合っている」ように見えても、一人の意見がその場を席巻するような場合は「対話」からは程遠い。となると社会の中で「会議」と呼ばれているものには、ほとんど「対話性」はないということにもなる。

むしろ「独り」であったとしても、「一方向性」であったとしても、「対話性」が起動する時がある。昨日も4年生を中心とした卒論発表会が催されたが、最後に僕が講評を語る際にそんな「対話性」を感じ得た。所謂、聞き手の眼がこちらに「話し掛けてきたとき」が、それを悟る瞬間である。何よりも彼ら4年生に〈教室〉で語る一生で最後の機会であるゆえ、講評の意義は大きい。例によって、小欄でも紹介した「〈卒論〉〈授業〉手作り料理論」を話した際に、今までの講義その他で僕との関係も再生され、彼らとの対話が起動した。こうした「あっ!」と思う瞬間があるものだ。(まあ自己満足といえばそれまでであるが)その後、夕方には親友からメールが届き、僕自身が自らを外側から見られるような穏やかな気持ちになった。さらにはジムに行くと、久方ぶりの友人から声を掛けられ、2年ほど前の僕の思考が懐かしく蘇った。これらはいずれもいずれも「対話的」な言動だと、僕自身は判断している。その後のトレーニングが自ずと活発になった。

心と身体は連動作用をきたす
泳ぎながら短歌一首が推敲まで完了した
やはり宮崎では春が確実に訪れ始めている

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