故郷は土地なのか人なのかー牧水歌から考える

2017-02-14
親も見じ姉もいとはしふるさとにただ檳榔樹(びろうじゅ)を見にかえりたや
(若山牧水『路上』より)
石をもて追はるるごとく/ふるさとを出でしかなしみ/消ゆる時なし
(石川啄木『一握の砂』より)

啄木に興味を持ったので、牧水との関係や如何にと思い、伊藤一彦先生の御著書『あくがれゆく牧水 青春と故郷の歌』(鉱脈社2001)を紐解いた。すると「第3部 若き牧水の周辺 風土と時代と人と」の中に「啄木と牧水」の評論(初出『短歌』角川書店1997)を見つけた。冒頭に引用したのは、両者の「故郷観」を比較すべく伊藤先生が根拠とする歌である。牧水にとって「故郷の自然は懐かしかった。しかし、故郷の人々はうとましかった。」というこころが表現されていると指摘され、一方「啄木は故郷に負い目を持たなくてよかった。」と指摘されている。牧水については「長男であるのに家業を継がず、東京の大学は卒業したが就職もせず、故郷の両親の扶養をしていないという負い目」があったとされている。そのこころは「親は恋しいと思うが、こわくて会えなかった。」のだと伊藤先生は指摘している。家業は医師、にもかかわらず早稲田大学文学部に進学し、「短歌」をやるために東京に残った青年・牧水のこころを覗いてみると、このような思いが浮かび上がるのである。

詳細はここに挙げた評論集で牧水の歌をさらに深く読む必要もあるが、人にとって「望郷」の思いというのは、誠に大きなテーマであると考えさせられる。僕の場合は、大学も就職してもほぼ「故郷」にほど近い土地で過ごしてきたので、こうしたテーマを真に理解するこころを、これまでは持ち得なかったように思われる。大学時代には地方から東京で独り暮らしをする親友が多く、よくその下宿に転がり込むこともあった。酒に酔い友と語り合うの中で、「親元を離れる」ことの意義を痛感したことが何度もあった。「独り立ちする」ということは物心両面で人を育てると、友の姿を見て実感したからだ。たぶん大学時代の恋愛関係一つをとってみても、独り暮らしをしていれば、もっといい意味で成熟したのではないかと今にして回想できる。また僕自身が牧水と共通するのは、「家業を継がなかった」ことである。この点も僕の両親はそれを寛容に認めてくれていたので、早稲田大学文学部に進むことも大喜びしてくれたほどである。考えるに「負い目」や「孤独」という要素が、むしろ牧水の歌を磨いたともいえるのかもしれない。それからすると実に甘えた青春時代を送ってしまったと、僕自身は思う。否、それだけに「今現在」、両親と遠く離れた宮崎にいるのだとも思えてくる。牧水と方向性を逆にする移住が、僕自身に様々なものをもたらせてくれているゆえである。

「故郷」とは土地なのか?人なのか?
いつまでも忘れ難く人となりに関わる「故郷」
やはり「人生は旅」ゆえに人を磨くのである
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