「さらさらと/握れば指のあひだより落つ」啄木を携えて砂浜へ

2017-02-13
「いのちなき砂のかなしさよ
 さらさらと
 握れば指のあひだより落つ」(石川啄木『一握の砂』我を愛する歌より・以下同じ)

快晴の休日。プロ野球キャンプが身近に観られる環境にありながら、そちらへは腰が重くなってしまった。在京時の僕では考えられないことだが、人は常に”無い物ねだり”な思いを抱くのかもしれない。この休日は、なぜか石川啄木の歌を読んでみたくなった。先週の牧水賞授賞式の際の佐佐木幸綱先生の記念講演で「(明治以降で)長い時間を歌に詠み始めた歌人」として評されたことへの興味もあった。また冒頭に記した歌はあまりにも有名であるが、砂浜を舞台に「我を愛する」というテーマと向き合う歌群で始まるゆえ、自らも身近な海岸に歌集を携えて出向いた。

「こころよく
 我にはたらく仕事あれ
 それを仕遂げて死なむと思ふ」

「『さばかりの事に死ぬるや』
 『さばかりの事に生くるや』
  止せ止せ問答」

啄木の「仕事」そして「生」と「死」への向き合い方は切実である。だが元来、「仕事」とは「生業(なりわい)」であり「生」へと断ち切れ難く結びつく。そして尊ぶべき「生」の背後には、必ず「死」が控えているということ。「死」を考えずして「生」の尊さも真に自覚できない。

「怒る時
 かならずひとつ鉢を割り
 九百九十九割りて死なまし」

怒る時には、何かを割りたくなる衝動に駆られるのは啄木に限らないであろう。現実に実行することは「大人」なら少ないであろうが、虚構の中で「かならずひとつ鉢を割る」ことで、精神の発露になる場合はある、と思う。

「この次の休日(やすみ)に一日寝てみむと
 思ひ過ごしぬ
 三年このかた」

とはいうもののなかなか一日は寝られないものであるゆえ、「思ひ過ごしぬ」なのであろう。

「人といふ人のこころに
 一人づつ囚人がゐて
 うめくかなしさ」

人生の荒波に揉まれていると、様々に「罪」を感じることもある。啄木の時代よりは遥かに豊かになった現在であるが、果たして「人といふ人のこころ」のあり様は、いかがなものだろうか?

「叱られて
 わっと泣き出す子供心
 その心にもなりてみたきかな」

「大人」であっても、泣きたい時は泣けばいいのかもしれない。


打ち寄せる波に心を洗い、沖には「白鳥」の姿も見えた。啄木歌を読んでいると、いつしか自らの「長い時間」が微かに見えてきたようにも思う。評論的な観点から述べるならば、啄木と牧水の自然主義的な歌への態度は、深く探究したくなるテーマである。それは同時に、現在に連なる明治の短歌史を考えることでもある。更には、それ以前に脈々と連なる1000年以上の和歌史との関連も見据えながら。
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