逡巡する思いを定めていくこと
2017-02-11
「世は定めなきこそいみじけれ。」(世の中は定まってないからこそ素晴らしいものだ。)
『徒然草』の一節から
鎌倉時代の随筆と云われる兼好法師『徒然草』は、当時の時代相から「無常観」を読み取る解釈が一般的に行なわれている。「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。」という一節も有名で、「桜の花は満開を、月は満月だけを見る(愛でる)ものであろうか、いやそうではあるまい。」と反語によって無常観を強調する文である。先日の宮崎歌会でも「水仙は芽吹きには注目するが満開は見ない」といった趣旨のことが詠み込まれた歌があり、この『徒然草』の一節をもって評する発言をした。立春を過ぎて1週間、春の足音が聊か聞こえてきそうではあるが、全国的に寒気に覆われ、大雪に降り込められた地域も多いようだ。かくいう当地・宮崎でも、僕自身は確認できなかったが、少々雪が空から舞い散ったという報告もある。誠に季節は逡巡しながら進行するものか、否、人の受け止め方が逡巡としているのか。
蕪村の俳句に「ゆく春や逡巡として遅さくら」があると『日本国語大辞典第二版』の「逡巡」の項目に教わった。やはり鎌倉時代の鴨長明『方丈記』の冒頭は周知のように「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」である。時間が留まることなく進行していることはわかっていても、人は「今現在」を捉えようとして足掻き苦しんで来たのであろう。もう既にこの文章を書き始めてからある程度の時間が経過したが、冒頭を記している自分と「今」の自分では、変化がきたしている。その「今現在」を定めあるものにする手段が、まさに「ことば」なのである。そのような定位をしようとして、多くの人々が逃れ難い「今現在」を記してきた。それがまさに文学として、我々の眼前に置かれている。自分自身を起ち上げてテクストを読む、ということは自らの逡巡を他者の逡巡との間において、対話するということだろう。やや迂回をしたが、卒論とは逃れられない逡巡から、若き時代の「今現在」を対峙させ、その格闘を「ことば」で表現することに他ならない。
卒論発表会に臨みて思う
「ことば」にこだわり自らを起ち上げる
「定めなきこと」との格闘に自ら身を曝すこと
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