授業を観察する視点ー「協働性」を考える
2017-02-04
教師が何をするかだけでなく学び手が何を考え話し書くか
あらためて対話的協働活動を考える
所属学部の附属小学校にて、恒例の公開研究会が開催された。多くの外来者の方々が、公開授業や分科会に講演会に来場する。教育実習や共同研究とは違って、格段に多い参観者が教室の周囲を囲み、公開授業が実施される。県内外の教育関係の方々から本学の学生まで、年代層も様々である。前に黒板や投影機のスクリーン、左右の柱には当該教材の本文や豆知識の貼り紙、児童たちは教科書・ノートとともに配布された印刷物など、外見上は従来の「授業」スタイルとは大きく変わらない。このある意味で「一斉授業方式」でありながら、内容的には過去のそれとは大きな違いが生じている。授業を観察する視点として、従来が「教師」に注目すれば済んだものだが、最近は児童たちの「言語活動」そのものを注視しないと、授業の内実はわかりづらい。所謂、「学習者反応」とか「協働性」「対話性」という点において授業は創られている。
どのように「音読」しているか、どのように「自分の考え」を言葉にしているか、どのように他者との「交流」に反応しているか等々、学習者そのものが教師のみならず他の学習者から学ぶ、という点を重視すべきなのである。よって参観者も教室の周囲から、大概を眺めていては授業の勘所は理解できない。僕などは率先して机間に入り込み、数名の児童に絞ってその「反応」を追跡するようにしている。ひとりが机間に入り始めると他の方々も入り込みやすくなることを、ある意味で援助する役割だとも思っている。授業開始時の「音読」などで、特にその「反応」が注目される児童(まったく個人的な観点に依拠しているのであるが)に関して、授業が終わるまでに「どう変容していくか」を見つめ続ける。「授業」が子どもたちを「育てる」行為であるとすれば、参観者もその「育まれた」内実を注視すべきであろう。もちろんその「反応」を起こす様々な教師の手立てを観る場合もある。だがしかし、「教師」が抜群な「指導技術」を発揮しても、学習者の思考を置き去りにしては何も見えてこない。こうしたことが最近になって「常識化」してきたことが、「国語」(のみではないが)の授業における問題点を炙り出しているようにも思う。
指導者と学習者間の協働性
学習者と教材間の協働性
教師の権威的な押し付けが学習を無味乾燥にするのは自明である。
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