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「読むこと」と「書くこと」の未来

2017-01-29
ほとんどが「黙読」のこと
ほとんどが「PC上」のこと
身体性を失った「読むこと」と「書くこと」の未来は

小欄をお読みいただいている「いま」の状態は、ほとんどが「黙読」ではないでしょうか?声を出してお読みいただいている方は、むしろ稀と予想しています。このようにWeb上の記事などを読む際にも、ほとんどが頭の中における「読むこと」で処理されている。そしてまた僕自身がそうであるように「書くこと」はPC上で行われ、実際に文字をペンで記す機会は格段に減ってしまった。感覚的には「キーボード上」が自身の文章を紡ぎ出す思考の競技場であり、その「指の動き」そのものが文字となり言葉となり文になって表現されていく。その感覚を「身体性」と呼べば呼べないこともないが、ペンで文字を刻みつけていたことと比較すると、文字変換に依存し一律の文字が表示や印刷され、体裁はよいのだが没個性的であり事務的であるともいえようか。

誕生日のプレゼントに、名入りのペンをいただいた。それを手にして刻まれたローマ字の自身の名を見つめると、世界で僕しか書けない文字を文を歌を刻め、と言われているような思いに至った。そんな思考をした結果、昨夜はすぐにそのペンの名を見つめている夢を見た。スーツの胸に据えたペンが、何を描いていくか。無限の可能性を、夢は語り出していたようにも思う。修士時代に尊敬する中国詩文の先生の演習を履修していた時、参加者の名前をビラとして配布された取るに足りない用紙の裏に書くという慣習があった。代表者の方が、わかっているメンバーの名前を次々に自ら書こうとすると、その先生は個々の人が個々の文字で書くように戒めた。紙上で文字の個性によって、名前と顔が一致してくるという「身体性」を重んじたいという趣旨のことを、僕ら学生たちに説明された。確かに最近、テレビ映像を通して観る新大統領の署名は、品位がなく強引な印象を拭えない。署名を始めとして文字を刻むことの「身体性」を、いかに維持していくか?Web上の出来事と現実世界が乖離していくように、個性なき「第二次現実」が単一化し正論のごとく語られる世の中は危うい。「読むこと」においても、「声を上げる」という成句の持つ「身体性」の価値を見出し続けなければなるまい。初めて原稿料をいただいた20年ほど前、そのお金で1本のペンを自ら買った。既に機能的には老朽化が進んでしまったので記念碑的存在として机の引き出しに眠っている。そこで、今回の新しい名入りペンによって、これから未来に向けて僕は何を刻んでいくのだろうか。

「短歌と声」に関する評論を成稿した
ここに和歌・短歌研究と「音読・朗読」研究が融合する
自らの身体性を確かめながら、歩むべき道を新たな1本のペンに教えてもらった。
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