他者を知ろうとする願望が

2017-01-21
「短歌の読みを駆動する」
「ミニマル読み」「存在読み」
(吉川宏志氏の文章から)

『短歌往来』(ながらみ書房)2月号「21世紀の視点」は、本年の若山牧水賞受賞者の吉川宏志氏が「〈信じること〉の回復」という評論を寄せている。「短歌表現自体の中からどのように〈信じること〉を生み出すかが求められている。」とまとめられる文には、「一首ごとの出来栄えで読んでいこうとする」(ミニマム)か「人生の総体を意識しながら読んでいく」(存在)かという『短歌年鑑』にある川野里子の用語も引きながら、現在の短歌の読み方の二方向性や難しさについて述べられていて興味深い。吉川氏は「政治や社会で、信じられない言葉が蔓延している時代」なども指摘しつつ、「言葉をどのように信じればいいのかが、わからなくなってきている」と述べる。社会にある様々な不信感が沸騰するかのような現状で、短歌はいづこに行けばよいのかを考えさせられる内容であった。

当該評論の冒頭には、鴨長明『無明抄』の文章「人のしわざは主のある世には、その人柄によりて劣る勝ることあり」を引き、和泉式部が恋多き「人柄」によって歌が劣っているように見られることがあった、という事例を紹介している。また同じく『無明抄』72段「おのずから寄りくることを安らかにいへるやうなるが、秀歌にて侍るなり」という俊恵の発言を引き、歌の「作為」について述べている。国語教育ではよく「作者の意図」という問いを発することがある。教科書採録教材の「作者」の「意図」なぞ、現実には分かるはずもないが、教師による作為的な「答え」に向かって、おきまりの学習が行われる。すると児童生徒たちの中で、「そんなことは分かるわけはない」という不信感が発達段階を追うごとに増大し、「国語嫌い」の一因になっていると感じることがある。短歌の場合は特に、一首一首の表現に精緻に寄り添いながら、著名な歌人であればそのあり方を、どのように関わらせるかという均衡が求められているようにも思われる。僕自身はどちらかといえば「テクスト論者」であるが、それゆえに短歌の読み方について、吉川氏の評論によって深く考えさせられた。

来月は若山牧水賞授賞式が挙行される
ぜひ吉川氏自身とこの問題について話したい
和歌・短歌・国語教育を繋ぐ担い手として
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