うたをよむことは人生に寄り添うこと(心の花宮崎歌会新年会)

2017-01-08
心の花宮崎歌会新年会にて
うたには人生が語り出される
一人ひとりの生き方に寄り添うこと

松の内もよろしく、心の花宮崎歌会新年会が開催された。会場となった郷土料理店では七草粥も振る舞われ、正月気分も潤う新年の宴となった。前半・歌会の題詠は「心(こころ)」。『古今和歌集』仮名序冒頭に「やまとうたは、人のこころを種として、よろづの言の葉とぞなれりける。」とあるように、うたとは元来が「心(こころ)」を詠むものとされているゆえ、その文字を使用しての作歌は難しい。もちろん「心の花」という結社の名称も、こうした理念に基づくものであろう。よって自ずと詠草の中にも「作歌」を題材にした歌もあったが、批評の中で伊藤一彦先生も「うたを詠む」ことを「詠む」のは難しいといった趣旨のことを述べられていた。自らの「心の動き・揺れ」が生じたのを「ことば」で捉えて具体的に観念的にならずに「五・七・五・七・七」に込めるのが、作歌のあるべき方向といえるであろうか。まずは自作のうたをここに紹介する。

爪半月こえたる血豆きみが見つ挟みし宵に孤りのこころ(中村佳文)

爪にできた血豆というのは、爪の伸びとともに次第に上に移動するが、それを「きみ」なる人物が見つめた。爪の根元にある白い部分「爪半月」をこえるまでには、それなりの時間を要する。その指を机の引出しで挟んだ過去の宵に、作者は「孤りのこころ」に苛ついており血豆はそんなこころの象徴のように時間経過とともに爪の上部へと移動してやがて消え去ることになるだろう。このような「こころ」を詠んだ歌であるが、下句が説明的であるという批評もいただき、小欄に「散文」で「説明」した「読み」に読者を誘うには歌表現として不十分であったと省みている。『古今集』を研究してきたせいでもなかろうが、やや自らの作歌姿勢が観念的に偏るのを覚える。

次に互選票の多かった歌を紹介しておこう。


老いゆける身に残しおく一粒の発芽するなき人恋ふ心(互選5票・俵万智さんも私も投票)

見落とした心が底にありそうで郵便受けを二度見する夜(互選5票)

せんば鶴千羽折り終へ指先にこころはあると少女譲らず(互選3票)

こころもち右肩上りの姉の字を真似て金賞とりし〈天地〉(互選2票)

一夜さの雨はあがりぬ木もれ日に小さきバジルの花心はゆるる(互選2票)


以上5首には、俵万智さんから賞品が贈呈された。

歌会に出席するとは、自らの「生き方」を歌に託して提出し、また詠草に刻まれた他の参加者の「生き方」そのものに寄り添うという実に感慨深いものだ。この新年歌会に初参加した方から、こんな感想が述べられた。まさに歌会とは、対話的に参加者と自らの人生に寄り添うことでもある。伊藤一彦先生や俵万智さんの批評にも、そのような人間味が深く感じられる。「歌なくして人生は深まらず」そんな思いと自らの未熟を思い抱きながら、美酒に酔い痴れての帰宅であった。
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