「手書き」が生き残る意味
2016-12-24
年賀状の宛名は?手書きそれともプリントアウト
文字を刻むことの意味を考える
毎年のこと、早くやろうやろうと思いつつこの時期になってしまう年賀状書き。裏面は今年一番気に入った写真を組み込み、パソコンで作成するようにしている。それでも尚、必ずや手書きで先方に対して個別のメッセージを書き入れるようにしている。そして宛名となれば、必ず筆ペンか万年筆で手書きをすると決めている。ただでさえ忙しい年の瀬に、年初め締切の原稿も抱えていながら、これだけは譲れないという思いがある。今年平成28年新年にいただいた年賀状の中に、裏面が「白紙」というものがあった。特に先方に問い合わせたりもしなかったが、プリンターを利用した上での「誤り」(2枚重ねで印刷され1枚が白紙となる)だと理解するようにした。それでも文学研究者の性(さが)であるか、「白紙」が何らかの「記号」ではないかと疑い、何らかの主張があるのではと「解釈」してしまい、気分が晴れない事態でもあった。メッセージも書かず宛名もプリントしてしまえば時間の節約にはなるが、これほど相手に対して失礼ことはない。むしろ年賀状をいただかない方がましだ、とさえ思ってしまう。この一件から、あらためて「手書き」をすべきという決意を新たにした。(という効用だけはこの1枚にあったか。)
学部時代に近世文学の先生が「君たちは先行論文をコピーするだけだから、十分な理解ができていない」といった趣旨のことを講義で滑稽に語っていたことが印象的だった。「僕らの時代は図書館で資料を借りて、すべて手書きで写したんだ。だから内容の良し悪しも奥深い点までよくわかった」と云うのである。「黙読」のみならず「音読」することを勧めている僕としては、やはり類似した意味で「文字を書く」ことも疎かにすべきではないと、最近思うようになった。所属する結社の短歌誌『心の花』への毎月の投歌は、専用の原稿用紙を使用して「手書き」が原則になっている。そのためか原稿用紙に清書する前に、作った歌をノートにあらためて「手書き」して推敲する習慣がついてきた。特に歌の場合は、使用語彙の表記や構成上の入れ替えなどを推敲することが大変重要であると思うようになったゆえである。その影響もあって、今年は夏頃から「手書き礼状セット」を常備するようになった。内容物は〈はがき・切手・万年筆・筆ペン・歌稿用紙・封筒〉である。出張の際なども携帯しており、「お礼」が述べたい方に出会ったりすると即日に礼状を「手書き」する。もちろん出張先で歌の締切間際になることもあり、早朝のカフェで歌稿を書いて投函したこともある。とはいえ、論文などを「手書き」する気には毛頭なれないのであるが、やはり「短歌は手紙」という俵万智さんの宮崎での「第一声」を尊重し、せめて「はがき」は「手書き」でありたいと思う年の瀬である。
小欄を見ればわかるが
パソコンでは文章がやたら冗長にもなる
「手書き」「はがき」「短歌」の関係性を考えてみるのも面白いと、またネタを見つけている。
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