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少ないながら忘年会

2016-12-21
「向島の知人の家で忘年会兼合奏会がありまして」
(夏目漱石『吾輩は猫である』)
その年の苦労を忘れるために行う宴会。(『日本国語大辞典第二版』より)

今年もあと10日ほど、その実感があまりないのは忘年会が嘗てより少ないからだろうか。大学学部単位のホテルでの宴会も、学部改組などの影響もあって開催されなくなってしまった。師走の2週目3週目にほとんど「忘年会」らしきものがないというのも、寂しいものである。冒頭には近代以降の「忘年会」という語彙の文献上の初出・漱石の『吾輩は猫である』を引用した。この習慣の起源は鎌倉時代に、武士や貴族が連歌を詠む「年忘れ」という行事に遡り、庶民が盃を酌み交わし一年をねぎらうようになったのは江戸時代からであると『平成ニッポン生活便利帳』に教わった。「年忘れ」では、どんな連歌が詠まれたかも興味深い。

少ないとはいっても、この日はゼミの年内最終回であったので宵には忘年会を持った。学生時代からの”習性”もあって、やはりゼミを実施したら酒を呑んで語り合いたいものである。かの若山牧水も比類なき酒好きであったことは有名であるが、早稲田大学で「歌」に関係した人脈を見回して、酒を嫌う人を探す方が難しいほどである。僕の学部時代は、恩師である上野理先生をはじめ研究室が同室(当時は2名の先生で1研究室だった)であった藤平春男先生、また文献学の大家である橋本不美男先生、そしてもちろん佐佐木幸綱先生も含めて「歌の先生」は呑むという専攻での常識があった。(もちろん近世文学の先生なども目立ってはいたが)そんな「歌の研究者」の端くれとして僕も、やはり学生たちと酒を飲んで語り合うことの重要性を継承したい思いが強い。この日は、まさにそんな思惑通りに酒の偉大なる力を拝し、打ち解けて多方面の話題が展開した。しばしあらゆることを忘れて、学生たちと興じる豊かな時間。ゼミ生の姿の中に、「あの日の自分」を見る思いがした。

師の教えは継承する
学問に限らず流儀は大切であろう
もちろん突っ込んだ話ができる間柄でこそ、学生は成長するのである。
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