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万葉集の調べに酔ふ

2016-12-13
あさもよし紀伊人羨(とも)しも真土山行き来と見らむ紀伊人羨しも(55)
玉藻刈る沖辺は漕がじしきたへの枕のあたり思ひかねつも(72)
うらさぶる心さまねしひさかたの天(あめ)のしぐれの流れ合ふ見れば(82)
(『万葉集』巻1より)

あらためて『万葉集』を読み直している。その動機・理由は、歌としての調べのよさを身体に刻み込みたいからだ。とりわけ巻1・2を重点的に声に出して読んでみると、自ずからその調べに魅了されてしまう。冒頭に記した3首では、「紀伊」にかかる「あさもよし」、「沖」にかかる「玉藻刈る」、「天」にかかる「ひさかたの」が枕詞である。本来は何らかの意味上の関連を持って出てきた詞(ことば)であるが、現代の解釈や「学校」での解説では「意味はなく語調を整える」などと教えられる。だがやはり「声」が基本である時代においては聴覚的にこれらの詞があることで、まさに「うた」が「歌」になったとも思えるような貴重な働きを担っているように思われる。

3番目に引用した82番歌の「うらさぶる」などという初句も、堪らない調べがある。携帯する角川文庫版(1985)の伊藤博校注では「寂しい思いが胸一杯に拡がる」とされている。現代人はあまりにも「文字」を読むことに慣れ切り、「意味」で物事を位置付けようとする。枕詞や万葉歌の調べに酔ふのは、まさにこうした近代人としての己を省みる作用が働く人には働くからであろう。これまでいくほどか「音読・朗読」について考えてきた僕であっても尚、本来の「声の文化」を真に理解するには、まだまだ修行が足りないと万葉歌は訴えているかのようだ。かの若山牧水も、「歌ができないとき」には万葉歌を声に出して読むことが効果的だと『短歌作法』の中で述べている。「音声」と「文字」との問題を深く和歌・短歌史の上で考えてみたいなどと、次の原稿の案を練っている日々である。

海(わた)の底沖つ白波竜田山いつか越えなむ妹があたり見む(83)
音の流麗さがまた意味の連鎖を呼び込んでいく
近現代は様々な意味で、本来の美しさを見失った時代なのかもしれない。
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