定式化社会が失っているもの
2016-12-09
定式化・マニュアル通りの社会いつでもどこでも同じ味のファーストフード
いつしか人の感情まで整序されやしないのか?
馴染みのお店で四方山話をしていて、他のお客さん1人を含めてこんな話題になった。バイトというのは学生時代に社会や人間関係を知る大変有効な機会であった筈だが、現在はマニュアル通りの定式化した勤務や対応で、そのあり様も変わったのではないかと。現にファミレスでの閉店時間への対応で、納得がいかない状況に遭遇したことがあるという実例も聞かれた。その結果、職場でも大学などでも、機械的なマニュアル化された対応をする人物が増えたのではないかという世間への愚痴を語る機会となった。またSNSを眺めていると、知り合いの大学教授が学生の卒論指導の”ドタキャン”に対して憤りを覚えたという投稿が見られた。メール連絡をすれば何でも許されるという感覚や、そのメールの文面の”心なき”書きぶりに対しての怒りであるが、多くの研究仲間の方々が共感する書き込みをしていた。世代間の問題というのみならず、この社会は便利になる一方で何か大切なものを確実に失っていると実感した。
せめてまずは僕自身が関わっている学生たちには、このような感覚から脱した思考を持ってもらいたいと日々願って行動している。この時季になればコートやマフラーを纏って目上の人の部屋に入ったり、説明を聞いたり話したりすることが「失礼」であるということ。大学構内で飲食をしながら歩いているということなど、それなりに「大人」への言い方ではあるが、僕は指摘するようにしている。こうして随所で意見をすることこそが、学生のためを思っているということになろう。そしてまた講義やゼミで意見を言わないことにも、警鐘を鳴らすことが多い。「意見を言わない」ということは、相手の発言を理解していないことであり大変失礼なことだ。さらには自らの「意見」を言わない人は、決して「己」というものがわからない。思い込み独善的になれば、自ずと生活も潤滑にはならず、下手なプライドで凝り固まってしまう。ちょうどこの日も来る日曜日に出場するイベント「短歌甲子園」の歌に対して、参加者である学生たちと意見を交わしていてそれを実感した。ちがった読み方ちがった発想に出逢って対話するということ。そのイレギュラーな反応へ如何に対応するかが、社会であり人生であろう。
感情がどこかに飛んだ説明的社会
「ことば」と「こころ」を取り戻すには
まずは眼前の学生たちと真摯に向き合うということ。
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