「ボケ岡」くんへの優しい眼差し

2016-12-01
「ボケ岡と呼ばるる少年壁に向きボール投げをりほとんど捕れず」
(『新百人一首』文藝春秋刊2013 島田修三の短歌から)
詩歌を読むために・詩歌を教えるために

1年生教職基礎専門科目「国語」のオムニバス担当の2回目。(全体120名を半分に分けて、国語学専門の先生と交互に3回ずつの講義を担当する)「国語」という教科では「思考力・想像力」を養うという指導要領上の目標を確認して、それを詩歌教材の学習としてどのように実現するか。そしてまた詩歌はどのように読んだらよいか、という内容を展開している。今回は特に詩歌を文字情報ではなく、朗読による音声で伝えてそれを受講者が個人で思考し、班内で話し合い一つの見解に摺り合わせて全体に発表し、多様な他者の「読み方」を知るという授業方法を採っている。最初に教材としてのは、金子みすゞのよく知られた「大漁」という詩。「あさやけこやけだ 大漁だ おおばいわしの 大漁だ はまは祭りの ようだけど 海のなかでは 何万の いわしのとむらい するだろう」というものである。「大漁」に歓喜する人間に反して、その裏側では「いわし」が弱者の立場として「とむらい」をすると捉える、命あるものへの愛情を込めた詩である。みすゞの詩には、このような「弱者」への思い遣りを詠み込んだものが多い。まずは小学校教材となり得るこの詩を読んで、学生たちに様々な思考を促した。

学生たちが思考する段階で、何首かの短歌をさらに提示する。牧水の有名な「白鳥は哀しからずや・・・」の歌、啄木の「人がみな/同じ方角に向いて行く。/それを横より見ている心」そして冒頭に掲げた島田の歌を提示する。昨今は「いじめ」が学校での大きな問題となっている。だが「いじめ」というのは、今に始まったことでもあるまい。その質や程度が陰湿になってしまい、限度を分からず根本的な人間関係性を喪失してしまっているがために、その対象たる子どもが極限まで追い込まれてしまうというのが昨今の実情であろう。この島田の歌を読むと、昔は「いじめ」られてしまいそうな子どもにも精一杯の愛情が周囲にあったことがよく分かる。「ボケ岡」などという呼称そのものが最近では影を潜めて、管理された学校空間では差別などが表面化しない。子ども社会を管理し精神の発露を抑制すれば、必ず裏では発散する事態が生ずる。「いじめ」問題が発生すると報道では必ず「いじめの事実はなかった」などという学校側の見解が発表される。まさに陰湿に地下で「事実」は展開していることが予想される。小欄の読者の方々も学校時代を思い出して欲しい、きっと「ボケ岡」くんに相当する人物の顔を思い浮かべることができるだろう。彼は学級で力を持った同級生の命令に服従しつつも、その擁護という恩恵を受けて存在感を持っていたような気がする。島田の短歌は、そんな弱者への愛情が素朴に言語化されているといえよう。

教師になれば直面する問題
「詩歌」から人間関係を考えてみる
詩歌の存在価値を学生一人ひとりに伝えたいゆえに。
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