書く漢語・話す和語
2016-11-24
書き言葉に適した語彙話し言葉に適した語彙
やまとことばの持つ音韻性等々・・・
小欄の記事はあくまで「書き言葉」を前提としており、その内容をいちいち話す機会が多いわけではない。だが時折、書き記した内容を講義の「マクラ」に使用したり、むしろ逆に講義で展開した内容を小欄に記すことがある。その相互変換の際には、頭の中で自然にそれぞれに適した語彙を使用するようにしていると自覚している。最近の講義では特に、話す内容の要点をプレゼンソフトにまとめてスクリーンにプロジェクターで投影しているので、ある意味では「話し言葉」を「書き言葉」で補っているともいえるかもしれない。勤務先の学生は概ね誠実なもので、僕の「話し言葉」よりもスクリーンに映し出される「書き言葉」を、一字一句書写している者も多い。そのためか「話し言葉」の流れと速度でスクリーンの頁を先に送ったりすることもあるが、学期末の「授業アンケート」には必ずといっていいほど、「スクリーンの送りが早くて書き取れなかった」という”苦情”が含まれている。授業担当者としての僕としては、その時間は「書き写す」時間なのではなく、あくまで「話を理解する」時間なのであり、「聞き取った」内容をノートできる速度で講義を進行させているという意識なのであるが。
先述した事例ひとつにしても、現代に生きる者たちは「書き言葉」に偏重している。概ね講演会などでの聴衆の様子を観ていても、多くの人が手元の資料に意識は釘付けとなり、講演者の「話し」の機微を汲み取ろうという姿勢があまり感じられないことも少なくない。学会発表などでも「発表原稿」を読み上げる形式が多く、単に「語尾」を「話し言葉」に置き換えて「喋って」いる程度で、「音声」としての「書き言葉」が会場に流れるだけという状態が一般的かもしれない。大量の情報をその場で伝えようとするならば、やはり「漢語」の持つ情報含有量を頼りにして、「書き言葉」資料を中心に説明するのが効率的な方法といえるのであろう。アナウンスなどの不特定多数の聴衆を対象とした弁舌はむしろ逆で、同音語の多い「漢語」の使用を制限して「和語」を入れ込むことで聞き手にわかりやすく伝えるという配慮をするのだと云う。概ね「書く漢語」に「話す和語」という対象的な図式が成り立っていることになるが、これも日本語の長い歴史を考えると必然なことだと思われる。問題なのは、その「漢語和語混合率」に自覚的であるかどうかということではないだろうか。明治以降、新たな造語を含めた漢語使用が盛んに行われる中で、「短歌」においては「和語」の使用意識が保存されることに期待する、といった趣旨のことを上田万年(明治期の国語学者・「国語」の教科制定に尽力)が晩年に述べている。「短歌」そのものももちろん「書き言葉」化が進む中で、「表記」の問題にも繊細な知見を示したのは「短歌」であった、という点に関して何らかの機会に論じてみたいと考えている。
意図的に「漢語」率を高くする講義
聞き手たる学生の意識覚醒のために試みることもあり
「やまとうた」の名にし追ふゆゑんをおぼゆるべき
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