「物語」はひとつじゃない

2016-11-23
自己の思いで描く「物語」
だが現実は必ずしもその通りにはならず
多くの「物語」があるとこに気付けるか否か・・・

地元紙・宮崎日日新聞(11月21日付)「客論」欄に、地域の「劇団こふく」代表・永山智行氏が標題のような内容で寄稿されていた。生きる上での「物語」はひとつじゃない。ある意味で自明のことであるが、昨今の社会情勢を鑑みるに、「生きる物語」を「一つ」に思い込んでしまう人が多いのは否めない。「物語」を「一つ」に決めてしまえば、その枠から脱することができなくなり、袋小路に追い込まれた結果、悲惨な道しか選択できない人の例が社会で後を絶たない。「学校」も「会社」も、そして「恋愛」も「結婚」も、大海の中のたった「ひとつの物語」に過ぎない。苦悩も挫折も紆余曲折もあるはずだが、決してその「物語」を最終頁まで完結”させねばならない”わけではあるまい。この広い世界には、計り知れない「物語」が存在し、価値観も多様であることに目を閉じてはならないはずだ。

現代日本社会で多くの人が「一つの物語」に決め込んでしまい原因に、このくにの「国語教育」が関係してはいないかと、ある意味で背筋が凍る思いがした。だいぶ改善されてきたとはいえ、「この小説で言いたいことは〈これ〉である」という「教師」の「読み」の押し付けが、過去から横行してきたからである。少なくとも「試験」で書くべき「答え」は、未だに「一つ」という場合が多い。(センター試験を見ればそれは明らかだ)「国語教育」の目標というのは本来真逆で、「ひとつの小説に対して、いかにたくさんの読み方があることを知るか」が本分であろう。教室の隣にいる「他者」や授業を先導する「教師」と自らの「読み」が違うことに気づき、それで己のあり方を悟るところに意義を見出すべきではないのか。敷衍して考えればこの社会に表面化している様々な所業、結論ありきの国会審議や強行採決、「結果は見えている」ゆえに投票しても何も変わらないと思い込まれている選挙、杓子定規に通行する防災警報、個々の危険度を無視した原発規制のなし崩し、等々数え上げればきりのないほどの「一つの物語」が強行されてしまっているのではないか。その反動がこの社会を極端な「クレーム社会」に仕立て上げていく。「決まった一つの物語」通りにならなければ、消費者は躍起になって対象を糾弾する。「文学」は「役に立たない」と言われながらも、実は深層のところで、その扱い方としての「国語教育」の過誤により、「物語が一つにしか読めない」社会を作ってしまっているのではないかと、大きな危機感を覚えた。

そしてまた「僕自身の物語」も「一つ」じゃないと気づく
だがそれは「他者」と語り合うまでは気づけない
この夜も近所の親友夫妻と語り合って「多様な物語」に気づくことができた。
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