笑顔があるかないかの空間は
2016-11-20
大学「祭」の警備担当日常性から解放された学生たち
これぞ学生たちの素顔のはずと思いながら・・・
この週末の勤務校は「大学祭」が開催されており、本年度は教務委員なので「警備」担当として出勤。今まで向こう3年間は、あまり学祭見物をすることもなかったが、構内を巡り歩くよい機会に恵まれた。炭火焼の煙が立ち上る模擬店テント、食べ物を売り歩く学生たち、各ステージではバンドの演奏が展開され、子どもたちなど一般の来校者の姿も多く見受けられる。「日常性からの解放」が「祭り」の定義であるから、学生たちも普段とは違った笑顔を見せている。もちろん今や「大学祭」なのであって、「文化祭」とは呼ばない方が相応しいのだろう。もちろん「音楽」も文化であるに違いないが、従来からの「文化祭」に見られた色彩は薄い。構内を巡りながら、僕自身は「大学文化祭」となると、いつも書道展の準備・展観・片付け・打ち上げに専心していて、大教室2室に自分たちの「書道」たる表現を最大限に披瀝しようと躍起になっていたことが思い返された。そこにはもちろん「笑顔」もあったが、作業の辛さや恋愛を含めた人間関係の混沌に身をやつし、「苦悩」も多く経験したことが記憶に刻まれている。
それでも日常から「大学」へ行くことは誠に楽しく、「笑顔」で行動していたのが僕の学生時代であった。「大学」に限らないが、高校・中学校時代を思い返しても「学校」は実に「楽しい」空間であった。「大学」であれば指導教授の先生や研究会の先輩後輩たちと酒を飲み、様々な話題を語り笑い合っていた。高校でも「授業」はともかく、様々に楽しい話題が生徒間にはひしめいていた。中学校ならば休み時間はテニスボールの野球に興じたり、プロ野球だのプロレスだのと仲間内で語り合い、学校から「後楽園」が近かったせいもあって、実際に生の野球やプロレスを見物に出掛けていた。休み時間などはいつも「笑顔」に包まれていたように記憶する。それゆえに僕は、「学校」へ行くのがいつでも好きだった。だが最近実感するのは、「学校」に「笑顔」が少なくなったこと。諸々の所用で「学校」を訪れると、先生方からして「笑顔」が少ない印象を持たざるを得ない。今週の「芸術家派遣活動」で「落語ワークショップ」を実施しても、一番「笑えない」のは先生方であったように感じている。そこからの連鎖で、子どもたちも心底から「笑顔」になる環境がないように感じられる。「授業の一環」となれば、やむを得ないとは思いながら、「学校」とはもっと「楽しい」ところではなかったのか、という思いを抱かざるを得ない。「大学祭」を見物していて、こんなことも考えた。
「楽しもう」と宣言するのは「楽しめていない」から
あの「笑顔」に溢れた学校空間はいづこへ
教員養成の必修単位に「笑顔教育研究」なぞ、まずはせめてゼミで新設しないと・・・
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