ニグリノーダ公演「赤桃」に参加して

2016-11-06
「むかし、むかし・・・
 いま、いま、たったいま・・・
 たったいまの、わたしたちの物語。」

今夏、研究室で主催した群読劇の脚本・演出を手掛けてくれた立山ひろみさん作・演出の公演を、宮崎県立劇場に参観した。0歳から入場できる演劇公演で、その名も「赤桃」。作り手も演じ手も演奏者も、そしてそこにいる大人もすべてが「こどもたちと一緒に、同じ視線」で物語と出逢うという趣旨の公演である。絵本の世界にいる「赤ずきん」や「桃太郎」が、飛び出して踊りだす、そんなコピーの魅せられて期待を寄せて会場に入った。県立芸術劇場大練習室の床に、クッションやら小さな椅子やらが無造作に並べられ、その先にはたくさんの絵本が開かれて立てて置かれている。席を決めると演じ手の方が、「この紙を舞台の奥の壁に貼ってください」と持ってくる。「どのように?」と思わず言ってしまうと、「本能の赴くままに」という返答。そうだ!大人はすぐ常識の枠を考え過ぎる。こどもたちはあくまで自由に「本能の赴くまま」に行動しているのだ。そして貼ったら席まで「鳥になって帰ってください」という注文。僕は両腕を羽に見立て、ゆっくりと羽ばたきながら、そして枝に止まるかのように、席に再び尻をゆっくりと着けた。「赤ずきん」役の女性が、その枝に着くまでの動作をしっかりと見届けてくれるのも、童心に帰ってとても嬉しい感覚になった。公演が始まると僕が斜めに異質な部分に貼りつけた紙は多くの中で唯一「黒子役」の男性によって引き剥がされ、芝居に利用された。これが「本能」と「運命」の「物語」であろう。

芝居はそこにいるもの全員で創る。そのような趣旨が大変興味深く、ついついこの方式を学校の「授業」に応用できないかとあれこれと考えた。作・演出・役者・スタッフの皆さんはすべて、かなりの力を注ぎ、この舞台を「準備」してきたはずだ。だが、それをあまり感じさせずこどもを中心とした参加者全員で、この公演が成立していく。これこそ「授業」の理想型ではあるまいか。また冒頭で「むかし、むかし」と何度も繰り返し唱えながら、次第に「いま、いま、たったいま」となって昔話と今現在この日この場所でしかない全員の「物語」があるのだと参加者の感性を揺さぶる。この「自己認識」を深め、「今ここ」の「課題」を意識させる動機付けは、「授業」でも大変有効であろう。後方から舞台全体を覆う巨大な布が急に出現し異世界に誘導したり、iPadによってその場で撮影した静止画や動画をフル活用して時間を横断したり、こうした演劇的手法は、アナログ・デジタル双方の身近な素材で「授業」でも簡単に使用できよう。小難しく「デジタル教材」などと構えるよりも、iPadの即時利用こそが有効だと悟った。そして「物語の答えは一つではない」という結末。「桃太郎」は「鬼を退治しなくなった」、それは「武力」を使えば「何の解決にも決してならない」ことを、あらためて僕の胸に刻んでくれた。

「パフォーマーの要素ひとつひとつを丁寧に扱って
 コトバ(台詞)だけ、物語だけに偏重しない新たな表現の可能性」
(劇団・ニグリノーダの紹介より)

公演後、帰宅した夕刻より僕の新たな「物語」が確実に始まったと実感した。
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