和の音階はいづこへ

2016-11-05
和歌披講の朗誦
雅楽の調べなど和の音を視聴する
我々の持つ音の感受性

「国語科授業研究」という担当科目で、「韻文教材」を扱う2回シリーズの回となった。「韻文」と一括りにしたが、「和歌・短歌」「俳諧・俳句」から「近現代詩」に至るまで、その内容は幅広い。一般論として、こうした「韻文」の「授業」において現場の先生方は苦手意識を持っており、時間数をあまりかけず、内容的に乏しい「授業」をやむをえなく実践しているという実情がある。「韻文」はその「韻律性」を味わってっこそ、学んだことになるのは自明である。だが、黙読中心の現代では、なかなか「韻律を味わう」ことそのものが何のことだかわからない向きが多い。「和歌」に関して言えば、伝統的な「披講」の形式があるものの、学校の授業ではあっさりと三十一文字を読み流してしまう「音読」がほとんどであろう。それが表現として熟したものになるかは、甚だ疑問である。

この日の講義では、披講の講師の読み上げや朗誦をCDにて聞いてもらった。また知人が参加した京都北野天満宮で開催された「曲水の宴」の際に奏でられた雅楽をスマホ音源から流した。「和歌」を句ごとに切ってゆっくりとした調子で読み上げる音がスピーカーから流れると、学生たちは一瞬、異様な受け止め方をした。音量が大き過ぎたせいもあるが、早く窓を閉めようといった動作に入ったのだ。(まだ講義開始前の休み時間であったゆえ)この態度を鑑みても、和の音階に対する違和感があるのだと、あらためて考えさせられた。「お経のようです」と発言した学生もいたが、要は「和の音階」を聞く機会が、神仏関係の諸行事に限定されているということであろう。「和歌」などは「人に心情を伝える具」であることから、声に出して読むことが通例であったことも伝える。例えば『伊勢物語』の「筒井筒」章段に見える「風吹けば沖つ白波たつた山夜半には君がひとり越ゆらむ」のように、「男の浮気」を止める効力を持つ歌があった。それも声に出して自宅の庭に隠れる「浮気夫」に聞こえたからこそ効果があった、という逸話を伝えた。さて学生たちは、自分たちがいかに西洋音階にしか馴染まない耳となっているかという、自覚が芽生えたであろうか。

あらためて「伝統的言語文化」とは何だろう?
古典を考える際に避けて通れない「明治の西洋化」
五七調・七五調の問題をはじめとして、僕の成すべき仕事を再認識する。
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