〈書くこと〉の抒情性と表現手段
2016-11-03
思い通りの文が認められないしかし方法が分からないと文章にならない
感情を抒べたいという基本を捉え直して・・・
担当科目の「初等国語教育研究」という講義で、「〈書くこと〉学習の自分史」という課題発見を昨年度から行っている。教師を目指す学生たちが、文章を〈書くこと〉にどのような経験則を持っているかを顧みて、絶対化しがちな自己の経験を相対化するという学びである。概ね多くの学生は所謂「作文」(あまり最近はこの用語を使用しないことになってはいるが)に対して良い印象は持っていない場合が多い。そして大学生に至るまで、「文章ライティング」の的確な指導を受けていないのが、この国の教育の実情であることを考えさせられる。
添削指導を受ければ、自分が書きたいことが指導者によって捻じ曲げられ、言いたいことが言えないという不満になる。反対に「自由」に書いてよいということになれば、「書き方」が分からないと不安ばかりが先行する。感想文なり行事作文を提出しても、一部の入賞者だけが取り上げられ添削指導を受けて賞賛されるという、偏向した指導経験を指摘した学生もいた。やはりここにも「正解主義」的な発想で、多様性を認めない横並び文化を醸成する悪弊が横たわっている。
だが子どもたちは発達段階を上るにつけ、自己の感情を表現したい強い欲求を持つ。それはSNSでの多様な表現を見れば、一目瞭然であろう。公の場で正統なる「議論・対論・反駁」のしづらい社会通念があると、むしろ隠れた世界で陰湿な表現が跳梁跋扈する。「自分の意見」や「感情表現」が包み込まれて、何らかの偏向した「観念」に基づく「正論」しか許されなくなる。現状の世相を鑑みても、こうした傾向はより甚だしくなっているのではないだろうか。
「やまとうたは人の心を種」とすると『古今集』仮名序にある。だがやはり「勅撰集(天皇の命により撰集された歌集)」という政治性が自由な表現の歌を制約したのも事実であろう。また和歌の享受史の上では、直線的な抒情を叶えている『万葉集』が礼讃されることも多い。その延長上に現代短歌があるとすれば、やはり「感情表現」は控えて読者に読み取ってもらう方がよいということになっているのであろう。若山牧水あたりはむしろ「かなしみ」などをよく短歌表現にしているが、それは『万葉集』的な抒情表現を学んでいたからでは、などという視点も得られそうだ。
感情を隠さず伝える
できそうでできないゆえに考え直すべきこと
〈書くこと〉の学習もやはり、人間性や社会性と大きな関連があるということだろう。
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