自然と模造品ー牧水の鳴らした警鐘

2016-10-19
「われわれは自然の一部であることを忘れている。」
牧水『短歌作法』の中のことばから
「近代」と「国語」についてゼミで考えて・・・

若山牧水研究会の刊行誌『牧水研究第20号』が今月8日に刊行された。僕自身も初めて「牧水の朗誦性と明治という近代」という評論を掲載していただき、恐れながら巻頭に据えていただく栄誉に聊かの恐縮を覚えている。ここ1年半ほどで歌の創作とともに、宮崎が生んだ国民的歌人である牧水の歌をかなり愛誦するようになった。就寝前には必ず牧水の歌を20首は、「低唱微吟」するようにしている。こうして牧水の歌を読んでいくうちに、その朗誦性の豊かさとはどこから生じているのか?という問題意識が浮上した。そしてまた僕が研究するもう一つの課題である「音読」については、牧水の青春時代がまさに「音読」から「黙読」へ読書法が移行する文化的な変質が生じた時代であった。さらには、「国語」という教科が成立する「学制」が制定されたのも牧水が延岡中学校(現・延岡高校)に進学する頃と合致する。「牧水・音読・国語」が僕の中で横一線に結びついたのも、今回の評論を執筆する大きな動機であった。

今回の刊行誌は特集「牧水と近代」を組むが、その「はじめに」において冒頭に記したような牧水の考え方を提起している。そして「われわれが近代において作り始めているものの多くは模造品(模型)のようなものだ」と、「近代」のあり方に警鐘を鳴らす趣旨が述べられる。誠に「自然」を愛した牧水ならではの感性であるが、その警鐘を無視して牧水の没後も戦前戦後を経て、昭和平成と今に至るのであるが、その「模造」の「模造」たる度合は増すばかりのように思う。この日はゼミで、このように「牧水と近代と国語」というものを課題に、学生たちと議論した。「国語」の学習の中にも、たくさんの「模造」された茶番のような内容が多く見出された。「作者の意図」も「主題」も「登場人物の心情」も、多くが「模造」を「正解」と祀り立てた「偽装」に過ぎないのではないか。少なくとも「国語」に携わる教師は、それらが「模造品」であるという自覚はせめて持ち得て欲しいように思う。昨今の「政治」などを見るに、まさに「茶番劇場」以外の何物でもないと思えることも多く、それを権力に絡め取られたメディアは馬鹿騒ぎで喧伝し、われわれ有権者も十分に監視できてはいない。僕が少なくとも「自然」への欲望を持って宮崎の地を愛好しているのも、どうやらこうした社会状況への忌避からかもしれない。「3.11」がそれを日本人に気付かせようとしたが、この国の社会はそれを見ないふりをして通り過ぎてしまったのである。誠に牧水先生の警鐘に、頭が上がらない状況が眼前にあるのだ。

人と人が繋がり・話し合い・聞き合い・豊かに笑い合う
この地には、自転車で倒れたおばあちゃんを車から降りて助ける自然がある
社会の荒波で苦しめばこそ、話せる相手がすぐそばにいることの自然を大切にしたいものである。
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