「風に吹かれて」一石を投じる受賞に思う

2016-10-15
How many roads must a man walk down
Before you call him a man?
ボブ・デュラン氏のノーベール文学賞に思う

毎年のことであるが、この時期の講義には「村上春樹」の作品の冒頭部分をスライドに仕込んでいる。古典から近・現代小説まで、主に散文の冒頭部分を教材にして「音読」活動をする授業構想を実践的に講ずる講義内容においてである。この日も、漱石・鴎外・芥川・川端に引き続き村上の作品冒頭部分を紹介した。明治から大正・昭和・平成という時代の中で、大まかではあるが冒頭部分が如何に変化してきたかを考えるためにも重要な配置である。そしてまた「村上」は「川端」の後の「一作品」として紹介するに過ぎず、特にコメントもしなかった。もしこの朝に受賞が決まっていたら、学生たちの反応はどう違っていただろう?などと僕一人が考えて講義はそのまま進行した。学生たちの中に、ぜひこの「思い」をわかる文学好きがいて欲しいと願いながら。

周知のように今年の「ノーベル文学賞」に、ボブ・デュラン氏が選考された。早速、大学へ向かう自家用車の中で、冒頭に示した歌詞の「Blowin’ In The Wind」を聞きながら大学の正門を通過した。そして、村上のように「作家」の受賞が一般的に目されているこの賞に、「シンガソングライター」が受賞した意味について自分なりに考えてみた。この代表曲「風に吹かれて(邦題)」のように彼に対する評価として耳にするのは、聴く人の立場立場で「如何様にも解釈できる」ということであろう。聴き手がその人の置かれている立場・状況を踏まえて、「自分」を起ち上げて解釈すると、その歌詞が寄せる波の如く「己」の中で響き渡るように”できて”いるということである。これまでの日本の国語教育の「失敗」として、教材の読み方を「一つ」に決めてしまうという点がある。「教師」の「読み(解釈)」が〈教室〉での唯一無二の正解であり、試験があるから仕方なく己の意に反して、学習者はそれに従う。その繰り返しが、せっかくの文学を「無味乾燥」なものとしてしまう。意見を発言したり自分なりの解釈で「音読」することも避けてしまう。実にシラけた〈教室〉を作り上げてきた。だいぶ改善はされてきたものの、いまだにその悪弊は払拭しきれていないと感じる場面に出会うこともある。歌詞は個々人の立場で「自由に解釈」してこそ、味わい深いものになることは、ボブ・デュラン氏の歌詞を味わえば明らかである。もしかするとこの受賞は、日本の「国語教育」にも大きな「一石」となるのかもしれない。

The answer, my friend, is blowin’ in the wind
The answer is blowin’ in the wind.
「友よ(学習者よ・中村挿入)、答えは風に吹かれている」のである。
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