「精一杯」の語感に思う
2016-10-12
生活感覚と習慣と特別ではなく日常に
「精一杯」な「今」のあり方を考えて
「精一杯」というと「なりふり構わず全力で」というように受け止められがちであるが、果たしてそうだろうか?もちろん辞書的意味も「力のある限り。できる限り。こん限り。力いっぱい」(『日本国語大辞典第二班』)とある。だが同じ「力のある限り。」であっても、粗々しい言動と精密なそれでは、のちになって大きな差になるように思われるのだ。「精一杯」の「精」はまさに「精神」「精魂」「精気」などの用例にある「精」であり、「こころ」の意味である。たぶん明治・大正・昭和の歴史の中でこの「精神」が強調されてしまい、「無謀であっても全力を尽くす」といった、いわば「精神論」を表現する語彙になってしまったように思う。この科学的トレーニング全盛の現在であっても、それなりの日本人スポーツ選手が「気持ち」を強調するのは、その象徴的な現象であろう。
「精」の文字は元来、「精米」の語があるように「きれいについて白くした米」の意味である。「精算」といった語彙には、「きれいさっぱり」という語感があるわけだ。そこから派生して「精巧」などに見られるように、「巧みですぐれている」といった意味にもなる。しかし残念ながら「精一杯」からは、こうした語感がほとんど感じられない。それは語史として仕方がない面もあるのだろうが、むしろそれだけに「精巧」を感じさせる「精一杯」があってもいいような気がする。「精度」を求めるということは、思考を高めることでもある。自分が何をどうしたいのか、という目標や欲望をどう叶えるのか?それはまさに「がむしゃら」ではどうにもならないことの方が多いはずだ。また身体の健康を考える際にも、なぜ身体に不調が起きたのか?という問題意識を客観的に科学的に見つめる必要があるように思う。生活習慣病であれば尚更、その人の生活そのものに「病巣」があるということになる。「病は気から」が強調され過ぎることで「精度」を持って自分の身体を見つめなければ、自らを滅ぼすことにもなりかねない。そこで大切なのが、やはり「精巧」の語感ある「精一杯」ではないだろうか。そのためには、生活の中で「小さな一つ」の心掛けから始めるしか道はないようにも思う。
昨日の小欄を読んで付加的内容
「考えて」生活を変えるとはどうすることか?
「今」あなたがしようとしていることが適切かどうか、自らの胸に問いかけることである。
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