「ありのすさび」和語表現力を考える

2016-10-09
「あるときはありのすさびに憎かりきなくてぞ人は恋しかりける」(伊行釈)
「あるときはありのすさみに憎かりき忘られがたくなりし歌かな」(牧水『独り歌へる』)
「ある(生きている)状態にまかせていること。」(『日本国語大辞典第二版』)

「ありのすさび」という語彙がやたらと耳につき好奇心を揺さぶり、そして追究したいという欲望でいっぱいになった。冒頭で引用したのは、『源氏物語』桐壺巻の「引歌」とされる和歌、そしてまた若山牧水が歌に詠んでいるということである。『日本国語大辞典第二版』によれば冒頭の引用に引き続き「あるにまかせてすること。生きているのに慣れて、何とも思わないこと。いいかげんに過ごすこと。」とある。「すさぶ」は「こころのおもむくままにまかせること。」の意味で、「口ずさむ」などの語彙が同類の意味を持つ。『日国』では用例として『古今和歌六帖第五 ものがたり』の「ある時はありのすさびに語らはで恋しきものと別れてぞ知る」という歌が掲げられている。歌の意味としては「生きている時は慣れてしまい何とも思わず親密に語らうこともしないでいたのだが、その人が恋しいものとは死して別れて初めて知るものであるなあ」というほどか。身近な親愛なる人に対して、人は怠慢に横柄になりいつしか愛情を忘れてしまうが、その人を失って初めて愛に気付くという、生きる上での皮肉が集約的に述べられている語彙ということができる。


和歌文学会第62回大会に参加し、初日の公開講演にて東京大学教授の藤原克己先生の話された内容から、特に興味深かった語彙について前述した。講演の冒頭でも藤原氏は、三好達治『浅春偶語』から「詩(うた)のさかえぬ国にあって われらながく貧しい詩を書きつづけた」を引き、「日本語の単語は概して音節数が多く、また抽象的な概念は漢語によらざるをえない。」という点を問題意識として指摘された。「詩が発達しないから、散文が成長した。」というわけで、「白居易『諷諭詩』のような詩を和歌で歌うことができていたら、『源氏物語』は生まれなかったのではないか。」ということを主張された。ある意味で逆説的に日本の散文の存在価値を論じながら、和歌の表現特性を炙り出す指摘として、大変興味を覚えた。その上で前半に記した「ありのすさび」という語彙については格段なる表現性を備えたものであるとされ、「個人的な背景・事情を捨象して、普遍的な心理の型として結晶化できたこと、こうした和歌の堆積が『源氏物語』の母胎ともなった。」として講演が締め括られた。

牧水は「歌」に対しての心境を詠む
「こころのおもむくまま」でも愛情深い関係を保つには
やはり歌は、人が生きる上で欠くべからざるものが「結晶化」しているということ。
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